日本のラジオ放送が始まったのは大正14年7月12日、東京芝の愛宕山から東京放送局が開局したのがはじまりです。

 その後、名古屋放送局、大阪放送局が開局し、ラジオは大変な人気を呼びました。

 この頃、当時の逓信省は放送事業の官僚支配化をめざし、開局した三つの局を統合させて社団法人日本放送協会を大正

 15年8月6日にスタートさせました。第二次世界大戦が始まり戦時下となると放送事業の監督機構の強化は益々厳しく

 なり国家統制化され、外国語はすべて放送禁止、戦況報告は必ず「敵国側には多大の損傷を与え、我が方は被害軽微」

 といった、もはや大本営の作文を放送するメディアとなって、国民に真実を伝える機能を失いました。

 戦争が終わり日本の民主主義化がGHQの手で行われる中、昭和22年にGHQが放送基本法と電波三法(電波法・放送法・

 電波管理委員会設置法)の立案の指令があり、昭和25年6月に施行され日本でも民間放送の開局の道が、ようやく開かれ

 ました。

 まだ、日本では経営としては海の物とも、山の物とも判らない民間放送の開局、その当時のエピソードは数多く伝えられ

 ていますが、ともあれ第1回の予備免許が昭和26年4月に次の民放16社に交付されました。

札幌

北海道放送

JOHR

1230kc

3kw

仙台

ラジオ仙台

JOIR

1250kc

3kw

東京

ラジオ東京

JOKR

1130kc

50kw

東京

日本文化放送協会

JOQR

1310kc

10kw

富山

北日本放送

JOLR

620kc

500w

金沢

北陸文化放送

JOMR

700kc

500w

福井

福井放送

JOPR

740kc

50w

名古屋

中部日本放送

JOAR

1090kc

10kw

京都

京都放送

JOBR

1140kc

500w

大阪

新日本放送

JOOR

1210kc

10kw

大阪

朝日放送

JONR

1010kc

10kw

神戸

神戸放送

JOCR

1490kc

1kw

広島

広島放送

JOER

1260kc

1kw

徳島

四国放送

JOJR

610kc

500w

福岡

ラジオ九州

JOFR

1290kc

5kw

久留米

西日本放送

JOGR

1120kc

500w

(久留米の西日本放送は現在の西日本放送とは無関係の社で、準備がととなわず、本免許で棄権した。)

この後、予備免許、本免許の過程を経て、信濃放送(信越放送)、北海道放送、静岡放送、ラジオ新潟、ラジオ長崎、

ラジオ高知、山陽放送、ラジオ香川、南海放送、ラジオ熊本、ラジオ大分、ラジオ南日本、ラジオ青森、ラジオ東北、

ラジオ福島、ラジオ三重、岩手放送、九州朝日放送、ラジオ山陰、ラジオ佐世保、ラジオ山梨、ラジオ宮崎、ニッポン放送、

日本短波放送、琉球放送、岐阜放送、ラジオ山口、大阪放送、ラジオ関東、和歌山放送、ラジオ沖縄、茨城放送、栃木放送、

極東放送、ラジオ岐阜と開局し、この内の岐阜放送とラジオ三重は、合併してラジオ東海となりました。       

                                

この民放の開局の当時、私は父の仕事の関係で栃木県の日光に住んでいました。

日光は観光地として有名な所です、北に男体山、女峰山などの2,400mクラスの山々を背にして関東平野を眼下に、また位置

としては本州のほヾ中央部といった立地条件から、日本国内で次々に開局する民放が日本海側を除いて結構良く入感する土地

でした。特に夜間ともなると小出力の局も予想外に聞こえて、遠距離受信に適したロケーションとなりました。

日本各地で次々と民放ラジオが開局したのが背景として有ったのでしょう、当時の若者たちの間ではラジオの受信機製作と

いう趣味が一つのブームとなっていて、国民型といわれた並四ラジオから高周波一段、スーパーなど、当時数多く出版され

ていたラジオ雑誌に掲載される受信機回路図を参考にして、多くのラジオを組み立てたものです。

この組み立てたラジオに最初に灯を入れた(当時は真空管時代ですから、このような表現が多かった) 時のドキドキする瞬間、

そして無事ショートもせずに音が聴こえた時の感激は、またひとしおの思いでした。

その頃のラジオ・ブームのきっかけとなった民放ラジオの番組は、当時の日本国民にとっては、実に新鮮なものでした。

何しろ紋切り型の、キッチリとはしていても人間味の欠けた、それまでのラジオ放送と比べてコマーシャル自体も物珍しく

新鮮でしたし、それ以上に法人とはいえ国をバックに官僚化した当時のNHKの意識改革の遅れが、国民には、より身近な存在

としての民間放送というイメージを、逆に倍加させたのは間違いありません。

事実、NHkはすでに国民の間では民間放送という言葉が定着し市民権を得た後まで、随分永い間、民間放送という表現を嫌い

商業放送と表現していて、よく私たちラジオファンの間では笑いを買っていたものでした。

 AN 精工舎の時計が、◯時をお知らせします

 SE 時報音

 SE (犬の遠吠え) CI〜FX

 SE (夜回りの拍子木) FX〜UP〜BG

 ガラッ八「親分、親分、てえへんだ ! 」

 平次「どうした !八」

 AN お薬の三共、三共製薬がお送りする、

               野村胡堂原作「銭形平次捕物控 酒屋火事 第三夜」 出演は滝沢 修さんです。

 平次「おう、八、行くぜ」

 お静「お前さん、ちょいとお待ち」

 SE (火打ちの音) CI〜FO

昔のことで、うろ覚えですが、確かこのような構成のラジオ小説「銭形平次」や、美空ひばりの「りんご園の少女」

「S盤、L盤、P盤アワー」などの様々なレコード音楽番組、開局間もない文化放送が制作した「六大学音楽リーグ戦」。

「知恵の輪クラブ」や「バイバイ・ゲーム」などのクイズ番組など、民放ラジオの黄金期は制作費もかけての、充実した

ものでした。

とにかく、敗戦で食べ物がなく着る物も不自由、そのような現実の中でも、暗い戦時体制から脱し、何か将来が明るく希望を

感じ取っていた時代。そして、今まで知らなかったアメリカ文明というカルチャー・ショック、アメリカに憧れを抱いていた

我々の世代は、進駐軍放送(AFRS 昭和27年の講和条約発効後はFENに変更)も良く聴いたものでした。

特に「ワン・ナイト・スタンド」「ハワイ・コールズ」「ウェスターン・ジャンボリー」など、アメリカ本土で制作された

音楽番組は今でも記憶に残る番組タイトルです。

全国の民放で二番目に開局した新日本放送(現毎日放送)は、その当時は大阪梅田の阪急百貨店の屋上にバラック小屋のような

建物を建て、急ごしらえの開局でした。

その屋上には鳩がよく群をなして舞っていたので、その社屋はよく「鳩小屋」と呼ばれていたものです。

日本のCMソングの最初となった小西六の「僕はアマチュア・カメラマン」が三木鶏郎の作曲でラジオ放送に乗ったのも、  

この頃のことです。

やがて昭和28年になるとテレビが開局し、初めは街頭テレビでしか観ることが出来なかった庶民の家庭にもテレビ受像器

が普及しはじめると、人々の関心も徐々にラジオからテレビに移ってゆきました。 

                                                    (完)