低調な放送番組の感想・批評・評論

永年、放送の送り手側の中にいて常々不思議に思っていたことは、一億総評論家といわれる時代に放送番組の批評、批判、評論

といった分野が他の世界に比べて非常に低調であるということです。

政治、経済、医事、社会問題、軍事、航空、教育、歴史、美術、演劇、ファッションなどの世界では、必ず名の知れた評論家が

おられ、またスポーツ界では、それぞれの競技種目別に評論家がいて、新聞、雑誌、著書、放送の世界で活躍されておられます。

文化面では昔から文学、映画、音楽などでは、専門家はもちろんのこと、一般の方々も折にふれて様々な意見の発表の場があり

活発です。

放送は、われわれの生活の中に日常溶け込んで、もっとも多くの人たちの目や耳にふれ、社会にもたらす影響も大です。

そのような放送に、一般が評論や意見を言うといった場所がこんにち迄ほとんど無かったという事が原因の一つかも知れません、

また番組の大半が下らないので評することに値しないといったイメージがあるのかも知れません。

しかし、数は少なくても良質な番組もあれば、下らなければ下らないなりに批判・批評がもっと受け手からのリアクションと

してあっても良いはずです。

よく私たちは「放送は字で書いて逆に読むと、送リッ放ナシとなるからしょうがないャ」と自嘲ぎみに語ったりしますが、確か

に放送は一過性のメディアで、読み返しがしにくいという面がありますが録音やビテオを活用すれば、じっくりと吟味した批評

も可能です。

意外と受け手側の反応がつかみにくい放送の世界

放送は、受け手である視聴者、聴取者があってこそ成り立つコミニュケーション・メディアです。

そして、権力の様々な介入に対し、常に「社会正義」の立場で対抗し得るには、一般市民の信頼と支持を得ていなければ力には

なりません。

ですから、本来は送り手側の放送局側は、不特定多数の受け手である視聴者、聴取者の反応を最大の資料として重視しなければ

ならず色々な形で、一般の受け手側のニーズをさぐる方法を講じます。

放送界ではラジオは大体年2 回、テレビは毎日のデーターを、ニールセンとかビデオ・リサーチに委託して数字を出します。

テレビの視聴率調査はあらかじめ依頼していた家庭のテレビ受像器に、記録装置を付加して自動的に受像器のオンになっている

時間とチャンネルを記録する機械式測定法が使われることが多いのですが、例えそのチャンネルを見ていても番組を支持した見方

をしているのではなく、毒づきながらボロカスに文句を付けながら見ている人も、一応チャンネルを合わせていたら、見ている人

の数字として表されて、それが、作り手側にとっては、見ているから番組が受けている、支持されていると、都合の良い方に解釈

されます。

(テレビの見方も昔と違い、嫌いだから、関心が無いからチャンネルを変えるといった単純なテレビの見方から変化して、

 最近ではストレス解消の娯楽として、このような嫌いなタレントや政治家の出る番組を意識的に選ぶ人が増えていると

 聞きます。そして、その嫌いな出演者の言うことに毒づいたり、ブラウン管の画面に映し出されたその顔を殴る真似を

 して楽しむといった、違う形の娯楽性すら生まれていると言われます。)

現在では視聴率は「世帯視聴率」「個人視聴率」の二つがありますが、ともに、どのくらいの人や世帯の人がこのチャンネルを

観たか(と、いうより受像器を点けていたか)だけを表す率であって、番組の質や好感度、支持を表す数字では無いのです。

またサンプル数も少なく誤差の精度を1パーセント以内にしないと、正確な聴取率は判らないのが現実で、今の所おおよその傾向

を知るための目安程度のにしか過ぎないのですが、現在では、ほかに方法が無いのと、数字という一見科学的な数値の説得力を

活用しスポンサー獲得という営業面での利益が図れることから、理念よりも営利が重要視される民放では次第に視聴率が一人歩き

して数字が絶対という神話が出来上がり視聴率万能という変な形となって、ともすれば経費をかけずに視聴率を上げることのみを

目的化して本来の職業倫理、ジャーナリズムの本分すら逸脱した事件もしばしば起こるようになってしまいました。

メディアの内部でも、こんにちの日本の社会全体が抱えている構造的な欠陥と同じように、経営陣の質の問題やら、権力側に媚び

た姿勢、目先だけの利益追求、社員の出世主義、社会全体の利益よりも自己利益追求などに比重がかけられ、「国民の知る権利」

の受託者としての本来の責任感や「受け手である市民側のメディア」や「社会正義」「社会倫理」が希薄になっている悲しい現実

があります。

テレビに限らず、ラジオの聴取率調査も同様で、調査機関による聴取率調査のデーターはやはりテレビと同じく大雑把な、目安を

掴める程度にしか過ぎません。

調査機関を使わず自局の調査部や編成部門などで電話調査をすることも多いのですが、「モシモシ◯◯放送ですが、日頃お宅では

ラジオは、どこの局をお聴きですか ?」と聞けば掛けられた人は愛想良く「地元の◯◯放送」と答える人が多いのは当然です。    

そんな訳で、制作担当側は「正確なデーターでは無いにしても、一応こんにちでは目安となっている聴取率を獲ることが出世の道   

とばかりに、血道を上げる」者や、「取材や仕事で外部の人、一般市民に積極的にふれ合い、皮膚感覚として一般のニーズを掴もう

と努力する」者など、様々です。

番組審議会、社外モニター

放送事業者は、社内に「番組審議会」を設置することが義務付けられています。

しかし、この実体は大抵の局は放送法で義務付けられているからやっているに過ぎず、審議会のメンバーは一般市民に委託する

ことは少なく、大半は地元財界や文化人をメンバーとして建前としてやっているに過ぎません。

審議会は編成部門の報告を聞いたあと、番組の視聴をして感想を述べ、比較的豪華な昼食をとってお開き、といった仲良しクラブ

的に形骸化していて、とても一般市民のアクセス権 に応えられる組織とはなっていません。

(アクセス権)

  (マスコミの情報の片寄りや独占化、送り手と受け手の固定化といった弊害を防ぐため、                   

    一般市民が自分の意見や主張を表明できるように、マスメディアの利用を要求する権利。                 

    一般市民の意向がメディア側に伝わることを保証する制度で、結果として

                              「国民の言論の自由」と「知る権利」を保障することになる。)

これに比べれば社外モニターの方は、まだ一般市民の意見を聞くといった点で評価できますが、

あくまでも局の自主的な資料収集行為ですから、その意見内容が公開される訳ではなく、

はたしてどの程度局内で活用されているかは、それぞれの局によりまちまちです。

放送批評、放送番組批評は放送文化の向上に役立ちます。

昔から芸術、文学などの文化は批判、批評により良質の進歩発展を続けてきました。

放送においても、一般の視聴者、聴取者が、ただ一方的に放送の受け身になっているだけでは無く、番組を楽しむとともに、積極的

に建設的な感想、批評、評論を行うことにより、放送文化の向上の力にもなり得ます。

ラジオにしろテレビにしろ放送番組を企画し制作するとなると、そこは矢張りプロの世界。

しかし、出来上がった番組を視聴・聴取して率直な感想や批評、批判が出来るのは一般の方々で、その面では一般の方々がプロなの

です。

なぜなら、放送の番組は決して作り手側の内部に向けて作られているのでは無く、一般の方々に視聴・聴取して貰いたくて制作して

いるのですから。

そして、その感想、批評、批判は必ずしも、他人の同感を得る論調をする必要は有りません。

他人の同感を得られなくても、自分の視点、正直に感じたことを番組評論とする。

良質な制作者なら、同様の意見で数が多いものも、勿論その内容が良かれ悪かれ当然関心を持ちますが、それと同時に全然違った

視点での批評も、逆に自分の思っていなかった反応として注目するものです。

ユニークな視点、個性的な感性を生かしたご意見は、必ず意欲ある制作者にとってヒントをもたらし、貴重な資料となるはずです。

                                                

                                                        (完)

2002.08.15