(浜寺の歴史)

 浜寺地域地図

浜寺の歴史

浜寺という地名を聞くと、海水浴場・別荘地をすぐ連想される方が多いと思う。

昭和36年、浜寺・諏訪ノ森・高師浜海水浴場が工業地造成のため閉鎖されるまでは、夏場は、一日10万人もの人を集める

関西の海水浴場のメッカとしてその名をはせ、東京でも年輩の方なら結構その名が知られた土地であった。

元々この地は、縄文時代から人が定住していたようで、海岸部から東部の丘陵地にかけては大集落の遺跡が随所に存在する。

弥生時代以後は、熊野・紀州に通じる街道の風光明媚な要所となったが明治に入り、いち早く鉄道が通じ、交通の便が良い所

から快適なリゾート地、そして居住地として発展した。

浜寺の地名の起こりは、昔は現在の石津川から高石にかけての海岸部を「高師浜」と呼ばれていたが、南北朝の頃、三光国師

(覚明)がこの地に大雄寺という大伽藍を建立し、吉野の日雄寺を「山の寺」と呼ぶのに対して「浜の寺」と呼ばれていたのが、

現在の地名浜寺として残ったものと云われている。

ちなみに高石も高師が変じたもので、現在では浜寺の地名は、浜寺公園を中心とした「浜の寺」のあった所ということから、

昔の高師浜と呼ばれた地域全体の中から浜寺昭和町・浜寺諏訪森町・浜寺船尾町・浜寺公園町・浜寺南町・浜寺石津町・

浜寺元町という堺市域のみが浜寺と称されるようになったが、歴史的にみれば現在の高石市の羽衣や高師浜周辺も浜寺地域と

いって良いであろう。   

 

三光国師 (サンコウコクシ)覚明は会津出身の僧で比叡山で

修行し、応長元年には中国に渡り帰国後、

後醍醐天皇・後村上天皇の深い帰依により三光国師の号を受け

日本各地に多くの寺院を建立した。

現在でも山梨県・千葉県・静岡県・広島県・島根県には、

三光国師ゆかりの寺院が数多く点在している。

 (大雄寺跡石碑 高石市伽羅橋)

「浜の寺」大雄寺は、この三光国師が各地に建立した多くの寺の中でも最大のもので、南朝の拠点として七堂伽藍をはじめ

堂塔九ヶ所を持つ広大な寺領を有し隆盛をきわめたが、応仁の乱で焼失し、今はその遺構もさだかでは無い。

しかし、地名としては浜寺の他にも、伽羅橋、三光川、三光橋、三光台地といった三光国師に関連した名称の場所が今でも

存在する。(高師浜物語に戻る)

          

     (三光橋 堺市浜寺諏訪森町)     (三光川 堺市浜寺諏訪森町)


時代は、さかのぼって平安時代の頃。

朝廷をはじめとして、熊野信仰がブームとなり熊野詣が隆盛を極め、京・逢阪より紀州・熊野への人々の往来が盛んとなった。

浜寺付近では、浜寺の東の丘陵地を通じていたのが、熊野街道 (小栗街道・熊野古道)と高野街道、

そして浜寺地内の海岸部を通じていたのが、紀州街道 (紀州海道・南海道※四国に至る)で、

この三つのルートを多くの旅人たちが通って行った。

当時は万葉の歌人たちも、多くの人がこの浜寺の地を訪れ風光をめでて、数多くの和歌や俳句、漢詩を吟じている。

 おほともの高師濱の松が根を 枕きぬれど家し 偲ばゆ      

                          (万葉集 置始東人)

 音にきく高師濱のあだ波は 掛けしや袖の濡れもこそすれ  

                          (百人一首 一宮紀州)

 沖つ浪 高師濱の浜松の 名にこそ君を待ち渡りつれ

                            (古今和歌集 紀貫之)

 あだ波のたかしの濱のそなれ松 なれづばかけて吾恋ひめや

                            (藤原定家)

この頃の浜寺は、ゆるやかな曲線を描く白浜に、緑の松林があざやかなコントラストを添えて、遠くに淡路島や須磨の山影を

のぞみ、磯辺に浜千鳥などの海鳥がたわむれ、あくまでも青い海原、茅淳(チヌ)の海、大阪湾は波静か。

長旅の旅人たちの目には、さぞかし、美しく映ったことであろう事は容易に想像できる。

この風光は、その後も幾星霜にわたり引き継がれ、明治の頃には、

   淡嶋晨霞 金剛暴雪 松間秋月 高石晴嵐 豊碑の夜雨 石津帆影

   茅淳漁火 家原晩鐘 

が「濱寺八景」と呼ばれ、観光絵葉書が土産物として人気の的であった。


寛政八年に出版された「和泉名所図會」を見ると、当時の浜寺は白砂の海岸が広々とつながり、防風林の松林が鬱蒼と繁り、

その松林の中を紀州海道が縫うように南に向けて通じて、多くの人々が海道を往来している。

松林は海辺だけではなく、かなり東の方にまで延び、その松林の合間に田畑が点在している。

そのような面影は昭和の初期頃までは、まだ各所に点在していた。その浜寺の景観の主役となる松の木も、歴史の上では

4 度にわたり、あわや絶滅という危機にさらされた時期があった。

最初の危機は、この地が一橋家・清水家と並んで徳川御三卿の一つだった、田安家の領地だった宝永年間に訪れた。

田安藩が財政逼迫して、松材で財政をおぎなう目的で数千本の松を伐採した時で、その時の危機は、その後、再び松を防風林

として植林したため浜寺の松は回復した。

次に松林がピンチになったのは明治の時代で、明治維新によって職を失い生活に困窮した士族を救済するため明治5年に、

その頃約3,000本あった松が1,000本まで切り倒された。

たまたま明治6年、時の内務卿 大久保利通が浜寺に遊覧で訪れ、伐採の光景を目にし、歴史に名高い松林の荒廃を惜んで

次のような和歌を詠んだ。

     音に聞く高師濱のはま松も

          世のあだ波はのがれざりけり

明治の元勲と云われる実力者、大久保が詠んだ、この和歌は世間の大きな話題となり、この和歌がきっかけとなって松の

伐採はただちに中止。

その年の太政官布告により浜寺公園は、わが国初の公園の指定を受け松林は保護が計られることとなった。 

それ以後、鉄道が通じ、松林内には数多くの旅館・料亭が開業し、テニスコートや諸設備が整って浜寺公園はリゾート地と

なって多くの遊覧客を集め、また公園の付近には別荘や高級住宅が建ち並ぶようになり、この当時は公園内にも60軒の別荘

が存在していたといわれる。


時代は昭和、太平洋戦争勃発。

戦時中は非常時の名のもと松林の保護どころか、資源の少ない日本の国情から浜寺の松は「松の根から採れる松根油が、

ガソリンや機械油として使えるのではないか」という学者の研究で、再び伐採されるようになったが、代用品としての効果

や生産効率が悪く、いつの間にかうやむやとなって幸いにも松の木の根絶やしと迄はならなかった。

やがて、その戦争も日本の敗戦で幕を閉じアメリカ軍の日本統治が始まると、風光明媚な公園は米軍将校とその家族たちの

住宅として接収され、松林内には白塗りの住宅・チャペル・シアターが建ち並び、浜寺公園は大きく変貌した。

最初は堤防までの陸地がキャンプ地だったが、やがて海岸部も接収されて、波打ち際まで厳重に柵で仕切られて一般の日本人

は立ち入り禁止。

夏ともなれば隣接する諏訪ノ森海水浴場の浜辺は、日本人海水浴客で足の踏み場もない雑踏ぶり、一方の柵内の米軍管理地の

浜寺公園海水浴場側は、サンタモニカもかくやとばかりの色とりどりのビーチパラソルが並び、ポータブルラジオがジャズを

奏で、アメリカ軍の将校の家族たちが波と戯れ、のんびりとサマー・バケイションを楽しむといった対照的な光景がくり広げ

られた。

一方、公園内の松林は、建物の整地や、車を通すための広い道路建設のために1,700本の松の木が犠牲となった。


昭和27年に日本が独立を回復すると、各地の米軍関係施設も徐々に日本側に返還されるようになった。

浜寺公園も昭和33年になると日本側に全面返還されて、それまで隣接する諏訪ノ森海岸を間借り状態で、夏場オープンして

いた浜寺海水浴場も、昔ながらの場所に移設、往時をしのぐ賑わいとなった。

以前から行われていた「浜寺大花火」も、段々と規模が充実して関西の夏の大イベントとなった。

海上で点火され、海面に写しだされる仕掛け花火の「浜寺ナイアガラ」は雄大さで評判となり、京阪神からは多くの人たちが

押し掛けて、現在のPLの花火大会のような様相を見せていた。

しかし、その浜寺海水浴場の栄華も長くは続かなかった。

昭和36年、折からの高度成長期に呼応して大阪市に隣接する堺市から高石市にかけての海岸部を埋め立て、南北12キロ、

沖合4キロの大規模な工業地帯が誕生することとなった。

この泉北臨海工業地帯造成のため昭和36年、「東洋一の海水浴場」といわれ、その設備や、松林と砂浜の織りなす自然景観、

内海ならではの波の静かさと良好な海の水質、遠浅という海水浴場としての条件、砂浜の広さとキメの細かい砂質の良さ、

そして交通の便の良さをうたわれ、明治時代からの伝統を誇った浜寺海水浴場も、永い歴史の幕をとじた。


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