(浜寺今昔物語 1)
浜寺の海物語 「一ノ洲のモチ貝と桜貝」
浜寺や諏訪ノ森海岸は、大阪湾の対岸の神戸御影を中心として産出される「御影石」
(花崗岩)が、海水によって浸食されてキメの細かくなった砂が打ち寄せられて出来た、遠浅の
白砂の海岸でした。
波打際から少しずつ深くなってゆき、やがては大人でも背が立たなくなる深さとなります。
ちょうど現在の臨海埋め立て地付近で海底が再びせり上がって、地元の人たちはこゝを「一ノ洲」
と呼んでいました。
「一ノ洲」は干潮となると子供でも背が立つ程の浅さとなります。
こゝには「モチ貝」(カガミ貝)という大きな二枚貝が、海底5センチほど下の砂にひそんでいて、
足で砂を堀り起こしては、つま先で「モチ貝」を採り、腰に付けた布袋に入れてゆきます。
多いときは1時間に100個ぐらいは獲れ夕食の食卓を飾ります。
「モチ貝」は純白の5〜6センチほどの貝で、貝殻の表面にはレコード盤の溝のような細かい線
がキザまれていて、貝の中身もかなり大きく吸い物の他にも色々料理にも使われ結構美味しい貝
でした。
このような生きた貝は、やはり海の中でなければ獲れませんが、海岸の波打ちぎわには二枚貝や
巻き貝などの色々な形の貝殻が海草と共に打ち寄せられていて、その中でも「宝貝」や「桜貝」
「ヒトエ貝」などと云う貝は、女の子たちの人気の的でした。

桜貝は「桜貝の歌」という昔の叙情歌にも歌われるように、
綺麗な淡いピンク色の二枚貝で、「桜貝」「薄桜」「桃の花」
「紅貝」などの名があります。浜辺に打ち上げられている中で
貝殻が欠けたり汚れたりしていないものを、当時の女の子たちは
懸命に拾って家に持ち帰りました。
そして、「桜貝」「宝貝」「ヒトエ貝」や美しい小石などを
綺麗に水で洗って、菓子の紙箱や木の箱に入れて
それこそ宝物のように大切にコレクションを楽しんでいたものです。


(昭和11年3月 諏訪ノ森海岸) (昭和35年 7月の開場をひかえて準備中の諏訪ノ森海水浴場)

浜寺の海物語 「石津漁村」

諏訪ノ森海岸の北端には防波堤を挟んで石津の漁村があり、防波堤の海岸部には漁船を収納する
舟小屋があって、昼間は漁夫の奥さんたちが毎日のように網の補修作業をしている光景が今でも
目に浮かびます。
漁村では夫たちが漁を終え舟が戻ってくると、留守を守る奥サン方が砂浜にロクロの巻き上げ機
を出して総出で、舟を海上から陸上に引き上げます。
これが毎日の作業ですから、子供心にも「大変な重労働」と感動したものです。


この頃(昭和20年代)の浜寺の子供たちの
楽しみは、早起きして早朝に、石津の海岸まで出かけて
地引き網を手伝うことでした。
沢山の漁村の人たちに交ざって一生懸命に網を引きます。
もちろん、子供の網を引く力なんか何の役にも立たない
のですが、子供たちにとって網が揚がりその中に沢山の
魚が躍るのを見るのが楽しいのと、帰る時にお手伝いの
ご褒美として魚を一匹貰える余得があったからでした。


(昔の石津漁村付近 後のアーチ橋は新浜寺大橋)
浜寺の海物語 「新浜寺大橋」

前日まで両側の阪神高速湾岸線の高架道路こそ出来てはいましたが、浜寺水路の上は
とぎれた状態で、車は手前の浜寺大橋を渡っていたのに、一夜にして巨大なアーチ橋が西の空に
聳え建つのを見て、浜寺の住民たちはビックリしました。
「新浜寺大橋」の誕生です。
あの巨大な橋が海路運ばれてきて、これもまた巨大なクレーンで一夜にして架かってしまうの
ですから建設技術の進歩もすごいものです。
この「新浜寺大橋」2,540メートルの架橋により、1992年、平成5年阪神高速湾岸線は完全な形
での全通となりました。
浜寺の海物語 「松露」

幻のキノコといわれる「松露」。
赤松の木の下に生えるキノコが「松茸」なら、春と秋に黒松の木の下に生えるキノコが「松露」
です。
表面が薄い黄褐色の、笠や軸がない団子のようなキノコで、食べて美味しいと云うよりも、
どちらかと言うと香りを楽しむキノコで、高級料亭や旅館などで良く使われました。
この「松露」も昔は浜寺でも良く採れましたが、近年では砂浜が無くなり、すっかりその姿を
消してしました。

(今では見ることの出来なくなった「松露」。
しかし浜寺公園駅前では、この「松露」を形どった「銘菓
松露だんご」が今でも売られています。)
福栄堂サンのホームページ
