浜寺地域の東の方角は、ゆるやかな丘陵地となっています。 今から2,400年前の縄文から奈良時代にかけて、この標高11メートルの丘陵地には巨大な 集落がありました。 東西600メートル、南北1,000メートル、総面積60平方メートルの範囲の地には、およそ 100棟の竪穴住居が発掘され、多い時には500人から1,000人の人間の営みが有ったと考え られています。 元々このあたりは、大正3年頃から畑地の開墾で多数の弥生式土器が出てきたことから大規模 な遺跡あとだと云うことが知られていました。 戦時中の頃は、畑のあぜ道を散歩していると随所に薄いレンガ色の土器片が顔を出していて、 まだそれを拾うことが出来たものです。 戦後、浜寺船尾町西5丁に浜寺中学校が建設されることになり調査が行われ、昭和43年には 第二阪和国道が、この遺跡の一部を通る事となり更に大規模な調査が始まりました。 この調査により縄文時代から奈良時代にかけて、およそ1,000年間にわたり人々が暮らして きた多くの遺跡や遺物が見つかり、近畿地方でも、もっとも大きな遺跡の一つとして 「四ッ池遺跡」と命名されました。
弥生時代になると、急速に「四ッ池遺跡」の集落は大きくなり海岸に近い浜寺地域にまで 人々の生活の場が分布してゆきます。 浜寺昭和町の黄金山遺跡、浜寺昭和町遺跡、浜寺元町の元町遺跡、 浜寺諏訪森町の諏訪森遺跡などがその痕跡で、これらの遺跡からは漢式土器・壷棺・かめ棺 ・銅鐸などが出土しています。


昭和15年頃まで浜寺諏訪森町東3丁の三光川近くの三叉路(現在は5又路)には、奈良の石舞台 のような巨大な岩室がありました。 天井の岩盤の上には土がその当時はまだ残っていて、やゝ小振りの松の木が生えていました。 道の三角点にデンとこの岩室は構えていましたので、リャカー(今や死語)などは窮屈そうに、 その脇を通っていたものです。
