大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会

 今後の予定は
     2008年3月28日(金)午前10時から 大阪地方裁判所で
         判決の申し渡しがあります。
           傍聴希望の方は、9時15分までにお越しください。 
     3月28日午後2時より、エルおおさか6階大会議室で報告集会を行います。
      弁護団報告と安仁屋政昭沖縄国際大名誉教授の「判決を聞いて」のおはなしがあります。

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最終弁論終わり、あとは判決を待つだけー判決は、3月28日午前10時
 大江・岩波沖縄戦裁判の第13回口頭弁論が12月21日大阪地裁で開かれました。12時過ぎに沖縄から駆けつけた人たちと裁判所に行き、公正裁判要請署名を提出しました。今回は358筆分です。これで、累計1万3995筆になりました。署名を集めていただいた方々に深く感謝します。
 今回が最終弁論でしたので、64枚の傍聴券を手にいれるために、抽選に並んだ人が178名でした。多くの支援者の方が来てくださり、当たりくじも多かったこともあって、希望者がほぼ全員入廷できました。被告側支援者が圧倒的に多く傍聴しました。
 原告側代理人は、あいかわらず最終準備書面提出が当日、それも開廷時間の午後1時15分になっても提出できず、2分遅れてようやく持ち込み、提出するありさまでした。
 原告側陳述では、中村弁護士が宮城晴美証言と金城重明証言、徳永弁護士が大江健三郎証言についての感想を述べただけでした。中村弁護士は「軍命で家族が殺せるのか、家族よりも軍命が大事なのか」といい、「慶良間列島で起こった集団自決は、家族を愛するがゆえの無理心中であった」とまで言いました。徳永弁護士も「大江証言は裁判のハイライトであったと思うが、『沖縄ノート』のコンメンタールのようなものであった」「曾野綾子氏が誤読している、赤松、梅澤氏も曾野氏の影響で間違った読み方をして、怒りを抱いていると言ったが、どこが誤読なのか、私にはわかりません」という始末でした。結局、最終弁論なのに、これまでの主張をまとめてきっちりと陳述することもなしに終わりました。
 最後に原告側の中村弁護士が「梅澤・赤松両氏の汚名を晴らしたいという悲願を考慮された上で、政治的な圧力などに左右されず、公正無私な裁判をしていただきたい」というような主張したくだりでは、開いた口がふさがりませんでした。この裁判を政治的思惑で始め、これを利用して政治的圧力で教科書を書き換えさせたのはどっちなんだ!と叫びたくなると共に、厚顔無恥も甚だしいこの主張に、唖然としました。
 これに対して、被告側代理人は秋山幹男、秋山淳、近藤卓史弁護士が、名誉毀損・敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の法理、名誉毀損の不法行為の不成立、「集団自決」の軍命令・隊長命令の真実性・真実相当性、慶良間諸島における集団自決と日本軍について陳述し、「以上の通り、本訴請求はいずれも理由がないことが明らかであるので、棄却されるべきである」と結びました。たいへん理路整然としたもので、裁判官、傍聴者を納得させるものでした。詳しい内容は、後日アップします。
 最後に、深見裁判長から、「判決は3月28日、午前10時から、当法廷で」の言葉があり、閉廷しました。


2007年11月9日 本人尋問記録(梅澤・赤松・大江氏の証言)

本文は、複数の傍聴メモを元に再現したものです。他の新聞の尋問要旨等を読み深めるためにご活用いただきたいと作成いたしました。
そのため、尋問の細かな表現まですべて再現しているとは言えませんが、できるだけ問答については省かずに掲載しました。
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅澤裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅澤さんに対する本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
 梅澤「はい」
 原「所属していた海上挺身隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
 梅澤「はい」
 原「当時はどんな装備だったか」
 梅澤「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾もあった」
 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
 梅澤「戦えない」
 原「陸上戦は想定していたのか」
 梅澤「いいえ」
 原「なぜ想定していなかったのか」
 梅澤「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
 原「どこに上陸してくると思っていたのか」
 梅澤「沖縄本島だと思っていた」
 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
 梅澤「していない」
 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
 梅澤「村の助役と収入役、小学校の校長、役場職員、それに女子青年団長の5人だった」
 原「5人はどんな話をしにきたのか」
 梅澤「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。サイパンの話も聞いている。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
 原「誰から言われているという話だったのか」
 梅澤「役所の上司、那覇あたりの行政から。それで、弾を破裂させ殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、ということだった」
 原「どう答えたか」
 梅澤「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれは後方にさがって陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
 原「弾薬は渡したのか」
 梅澤「拒絶した」
 原「5人は素直に帰ったか」
 梅澤「執拗に粘った」
 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
 梅澤「30分ぐらい」
原「お帰りくださいと言ったのか」
梅澤「そんな生やさしいことはいわず、『帰れ!』と言った。『死んではいけない』と言って追い返した」
 原「その後の集団自決は予想していたか」
 梅澤「全然、予想していなかった」
原「本部壕はどこにあったのか」
梅澤「古座間味の本部壕、住民とは1キロメートルほど離れていた」
 原「集団自決のことを知ったのはいつか」
 梅澤「昭和33年の春ごろ。『週刊朝日』『サンデー毎日』の報道で知った」
 原「なぜ集団自決が起きたと思うか」
 梅澤「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
 梅澤「とんでもない」
 原「『島民に芋や野菜をつむことを禁じ』とあるが、島民に餓死者はいたか」
 梅澤「いない」
 原「隊員は」
 梅澤「兵には数名いる」
 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
 梅澤「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」
 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
 梅澤「昭和52年に(宮城)初枝から手紙が来て面会することになった」
原「それでどうしたか」
梅澤「昭和57年ころだったと思う。部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」
 原「団長の娘の手記には、梅澤さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
 梅澤「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
 原「初枝さん以外の4人の運命は」
 梅澤「自決したと聞いた」
 原「昭和57年に宮城初枝さんと再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
 梅澤「はい。私が覚えていたのは娘だったが、それから40年もたったらおばあさんになっていたから」
 原「その後の初枝さんからの手紙には『いつも梅澤さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
 梅澤「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたと言え』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」
 原「昭和62年に、助役の弟に会いに行った理由は」
 梅澤「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
 梅澤「1人で行った。3時ごろだったか」
原「会って、あなたは何と言ったか」
 梅澤「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
 原「そうしたら、何と返答したか」
 梅澤「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」
 原「どんな話をしたのか」
 梅澤「『厚生省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
原「(宮村幸延が書いたという文書を見せ)この証文は誰が書いたのか」
梅澤「わりとすんなりと書いた。文章をどういうふうにしたらいいのかと」
原「それでどうしたのか」
梅澤「私が考えて書いたものを見せて」
原「これは、どういうものか」
梅澤「私が下書きしたものかわかりませんな」
原「下書きと文書の違いは」
梅澤「幸延氏がその方がよいと思って書いた」
原「その時、幸延氏は泥酔していたか」
梅澤「泥酔していなかった」
原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
 梅澤「資力がなかったから」
 原「裁判で訴えたいことは」
 梅澤「自決命令なんか絶対に出していないということだ」
 原「多くの島民が亡くなったことについて、どう思うか」
 梅澤「気の毒だとは思うが、『死んではならない』と言った。責任はありません」
 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》
 
《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》

 被告側代理人(以下「被」)が「防衛省にある『沖縄方面陸軍作戦』をもとに、軍が島に駐留してから以後のことを聞く」と梅澤は、「4410月から特攻基地建設、特攻の訓練」をやったことと452月以後島に駐留する日本軍の最高指揮官は梅沢であったことを「認める」
 被「座間味島の忠魂碑前で、8の日に儀式が行われていたことを覚えているか」
 梅澤「覚えていない」
 被「大詔奉戴日とはどういうことの日か」「太平洋戦争開戦の日に大詔が出されたことを記念し必勝祈願をする日だったのですね」
 梅澤「そうだと思います」
 被「その儀式に軍は参加していたか」
 梅澤「参加していません」
被「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたことは知っていたか」
 梅澤「島の長が島民に教育していたと思う」
 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」
 梅澤「浸透していたと思う」
 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」
 梅澤「そういうことは、新聞や雑誌を通じて報道されみな知っていた」
被「軍の作戦本部は最初村役場の会議室と青年会館におかれたのか」
梅澤「使ったことはない」
被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」
 梅澤「村役場のものが、用があればやってきた」
被「島民への指示はだれがしたのか」
梅澤「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」
 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」
 梅澤「私から基地隊長にお願いした」
 被「軍の装備について。軍にとって手榴弾は重要な武器か」
 梅澤「はい」
 被「宮城初枝さんが木崎軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」
 梅澤「はい。初枝から聞いた」
 被「(座間味村史を示し)宮里育江さんが325日に『連れて行くわけにはいかない。民間人だし足手まといになる。万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いているが、このことは知っているか」
 梅澤「知らない人だ」
 被「こんなことがあった、というのは知っているか」
 梅澤「おそらくそんなことはなかったと思う」
 被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという宮平初子さんの手記は知っているか」
 梅澤「言うはずがないと思う」
 被「宮川スミ子さんは『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」
 梅澤「そういうことは全然知りませんし、ありえないと思う」
 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」
 梅澤「ありえない」
 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」
 梅澤「知らない」
 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」
 梅澤「知らない」
 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」
 梅澤「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」
 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」
 梅澤「同じだ」
 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」
 梅澤「言った」
 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」
 梅澤「言った」
 
《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》

 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」
 梅澤「違う」
 被「沖縄タイムス社との会談のテープがあるが聞いているか」
梅澤「聞いていない」
被「記録もあるが読んだか」
梅澤「読んでいない」
被「あなたは『家族に見せるため』ということではなかったのか」
 梅澤「それだけではない」
 被「328日、(宮里)芳和さんに電話かけてもらって会ったんでしょう」
梅澤「記憶にない」
被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」
 梅澤「去年」
 被「どういう経緯で読んだのか」
 梅澤「念のため読んでおこうと」
 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
 梅澤「ない」
 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
 梅澤「ない」
 被「(梅澤の手紙を示し)あなたが昭和55年に出した宮城晴美さんへの手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響力が甚大であり、軍を代表するものとして全く申し訳ありません』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」
 梅澤「私は『軍は関係ない』とは言っていない」
 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」
 梅澤「関係ないとは言えないという趣旨だ。責任は米軍にある」

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》

 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという命令を島民に出したか」
 梅澤「出していない。兵も配置していない」
 原「軍は何かしたのか」
 梅澤「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」
 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」
 梅澤「ありえない」
 原「軍は全島に展開していたからか」
 梅澤「はい」
 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、『ある神話の背景』は読んでいたのか」
 梅澤「はい」
 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」
 梅澤「知っていた」
 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅澤さんの名前は書かれていなかったという意味か」
 梅澤「そういう意味だ」

 《被告側代理人も再び質問》

 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」
 梅澤「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」

 《梅澤の本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》
 
《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次の弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》

原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」
赤松「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」
 原「1950年に発行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」
 赤松「読んだ。大学の近くの書店で偶然見つけて手に入れた」
 原「戦争の話には興味があったのか」
 赤松「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、戦争のことを知りたかったからよく読んだ」
 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」
 赤松「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」
 原「お兄さんに確認したことは」
 赤松「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、1960年ごろ本棚で見つけて持って帰った」
 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」
 赤松さん「『沖縄戦記』も。ほかにも2、3冊はあったと思う」
 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」
 赤松「そりゃショックだ。329人を殺した人殺しと書かれているんですから。」
原「それで、どうしたか」
赤松「親兄弟に話さず一人で悩んでいた。ショックで友だちの下宿に転がり込んでいった」
 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」
 赤松「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できた」
 原「『ある神話の背景』は、どういう経緯で読んだのか」
 赤松「友達が教えてくれた。うれしかった。無実がはっきり証明され、信頼感を取り戻せた」
 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」
 赤松「これだけ書かれたら、間違った事実を書いているものは廃刊になるだろうと思った」
 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」
 赤松「大江健三郎先生は直接取材したこともなく、島にも行かず、兄の心の中にまで書かれている。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」
 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」
 赤松さん「はい」
原「『ある神話の背景』は」
赤松「友だちにも送りました。読んでくれと。宝物みたいなもんですわ」 
原「訴訟を起こしたきっかけは」
赤松「3年前に兄の(陸士の)同期の山本明さんから話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」
 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」
 赤松「むずかしい本ですね。兄の部分だけをパラパラと読んだ。いやとばして読んだ
 原「悔しい思いをしたか」
 赤松「はい。45年渡嘉敷島に行ったことまで終章に書かれている。兄も46年『潮』に「私は自決を命令していない」を残しているが、極悪人と面罵(めんば)され、娘に誤解されるのは辛いからと。兄は無実をはらしたいと思っていた。私も兄の無念の思いを晴らしたい。」
 
原告代理人が『潮』の文を読む、

《裁判長から、「時間を守りなさい」との注意があり、原告側代理人の尋問が終了》
被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」
 赤松「ない」
 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求 めたことがあったか」
 赤松「なかったでしょうね」
 被「山本明さんからすすめられたので、裁判を起こしたのか」
赤松「そういうことになります」
被「お兄さんの手記は読んだか」
赤松「『潮』は読んだ」
被「『島の方に心から哀悼の意を捧げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」
 赤松「知っている」

原告側代理人が再尋問
原「裁判は人に起こせと言われておこしたのか」
赤松「山本さんからもどうだと言われましたが、歴史の事実として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」
《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した 1353分》
 
《午後1時55分、大江健三郎氏が証言台に。》
 被告側代理人(以下「被」)『陳述書』を確認し、
被「『沖縄ノート』は1970年9月に出版、この本の3つの柱について説明してください」
大江「はい。第1の柱は本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。私は日本国憲法のもとで暮らしているのに、沖縄では憲法が適用されず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、1970年に渡嘉敷島の守備隊長が島を訪れるということを新聞で読み、日本人のあり方についてです。現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人がアジアと世界に対して普遍的な人間であるにはどうすればいいのかということを自分に問いかけるために書いた」
 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかがテーマか」
 大江「はい」
 被「『沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」
 大江「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」
 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」
 大江「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『〜という命令』とした」
 被「日本軍の命令ということか」
 大江「はい」
 被「執筆にあたり参照した資料では、赤松さんが命令を出したと書いていた
 大江「はい。沖縄タイムス社の『鉄の暴風』にも、上地一史さんの『沖縄戦記』にも書いていた」
 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」
 大江「この大きな事件は、ひとりの隊長の資質、性格や選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」
 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」
 大江「そう」
 被「守備隊長に責任があると書いているのか」
 大江「はい」
 被「実名を書かなかったことの趣旨は」
 大江「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」
 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」
 大江「日本軍―32軍―守備隊という構造ということを考えると、一般的な日本人という意味でありむしろ名前を出すのは妥当ではないと考えている」
 被「渡嘉敷や座間味の集団自決は日本軍の命令によると考えるのは」
 大江「『鉄の暴風』『沖縄戦記』など参考資料を読んだり、牧港篤三さんに会い、いろんな人の話を聞き、日本軍の命令という結論に至った」
 被「陳述書では、軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」
 大江「はい。なぜ、慶良間で700人もの人が自決したかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『軍官民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」
 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」
 大江「私くらいの年代のものは、『戦陣訓』は常識のようなもの。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると教えられた」
 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」
 大江「劇団『創造』の人や牧港さんのほか、泊まったホテルの従業員らからも聞いた」
 被「集団自決は手榴弾で行われたのは知っているか」
大江「知っている。何人もの人から聞いた。重要な武器がどうして渡されたのか、不思議である」
被「いつ渡されたものか」
大江「事前に32発、当日に20発、『鉄の暴風』に書いてある。赤松隊から渡された手榴弾で自決したと」
被「慶良間の集団自決について、現在も、やはり日本軍の命令と考えているか」
大江「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなった」
被「『おりがきたらと判断したのだ。そして彼は那覇空港に降りたったのであった。』というのは」
大江「集団自決を強制したと記憶される男、『命令された』集団自決をひきおこす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長、と書いている」
被「おりがきたといって那覇空港に降りたった守備隊長に対しては」
大江「日本軍が沖縄で行ったことは戦争犯罪だと思う。沖縄法廷で裁かれるべきだと考えた」
 
《このあとの部分は、イザ!ブログにはないが、『WiLL071月号に掲載されているので、それを修正した。
 
被「『人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと願う』とあるが、これは渡嘉敷島の守備隊長のことか」
 大江「そうです」
被「この罪というのは何か」
大江「罪というのは、集団自決の、軍の命令によってあの大きい数の死者が出たということです」
被「巨塊とあるが、この巨塊とは何か」
大江「巨塊というのは、大きい塊という文字を書いておりますが、あの、ご存知のように日本の字引には「キョカイ」という音で大きい塊と書いたものはありません。現在もありません。それで私は、この巨塊という言葉を日本で作りたいと思います。それでツミノキョカイと読みますが、私が最初に書きました時には、渡嘉敷島で死体となって霊となった数多くの人たちというふうに書きました。それは死者に対して私は無礼だと思いますので、死者という言葉を使うことをやめました。罪の塊、ということを、罪の結果の塊ということを考えまして、あまりにも大きいその集団自決の死体の塊、死体の集まりの前で、それに関係している人が罪に関してどのように感じるだろうかということを推測した、想像したというわけでございます」
被「『あまりにも巨きい』の意味は」
大江「あまりにも巨きい罪の巨塊に、罪の、ないし、犯罪の結果の死体の巨きい塊、という事が巨塊になりますが、巨塊の巨、を強調するために使われています。一般にあまりにも、という言葉が、あまりにも、という副詞がつかないままですね、巨きい罪の巨塊と言いますと、巨きいという言葉の反復は同義語反復とこう言いまして、文法的に正しいとは言わない。本来の文法の場合、それは強く避けられます。しかし、「あまりにも」という副詞をつけますと、巨きい「あまりにも巨きい」と言って、次の巨塊という場合の巨を強調するために、ただあまりにも巨きい、巨きいを使うことができるようなことになります。それによって、特に私は巨きい死体の塊、罪の結果の巨きい死体の塊というものを強調してですね」
被「巨塊とは、守備隊長のことを巨塊と言ったわけじゃないということですか」
大江「はい。あの、そのように誤解していられる、読み間違えていらっしゃる方かおりますが、しかしそうではなくて、『あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう』と言ってるのでありますから、この彼は守備隊長でありますから、守備隊長が守備隊長の前でということになります。それは読み取りが間違いです」
 
《ここまで、『WiLL071月号の修正》
 
被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」
大江「普通の人間が、軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」
 被「『ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」
 大江「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」
 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」
 大江「ハンナ・アレントはアイヒマンを実行者だと言っていない。アイヒマンを不思議な人といっている。アイヒマンはドイツの若者たちの罪責感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」
 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」
 大江「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。日本の青年には罪責感というものはない。渡嘉敷島の隊長は、自分の責任を背負って死をということはない。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」
 被「赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」
 大江「知っている」
 被「軍の命令だったとか、隊長の責任としたのを訂正する考えは」
 大江「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要は考えていません。」
被「『ある神話の背景』には、『死の清らかさを自らおとしめてしまうのか』と富野少尉、戦後自衛隊の1佐になった人の言葉が引用されているが」
大江「集団自決は悲惨なもの。それを美しい、清らかなものとは思わない。そういうふうにするのには反対しなければならない。愛国心のために生命を絶ったのだ、清らかな死というのは人間をおとしめるものだ」

《被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》
 
《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》
 
《これから以後の原告側代理人と大江氏とのやりとりは、以下に示す個所まで、イザブログでは削除させている》

 原告側代理人(以下「原」)「『沖縄ノート』に、『アイヒマンのように裁かれてしかるべきであった』と書かれているが、私たちは、この部分を渡嘉敷島の元守備隊長が大量虐殺の責任者としてアイヒマンになぞらえて絞首刑にされてしかるべきであったと書かれていると読みとったのですが、大江さんは、『陳述書』の中で、戦争の考え方について、旧守備隊長とアイヒマンは、考え方が逆なんですと書いておられますし、アイヒマンと守備隊長をなぞらえて絞首刑にすべきだと言っておられると、読みとるのはまちがいなんだと言われておられますが」
大江「アイヒマンがやろうとしたことは、ドイツの若者がもっている罪責感を自分が公開の絞首刑に処せられることによって拭ってやろうとしたわけです。アレントの本をよくお読みになるとわかります。アイヒマン自身は自分がナチスの虐殺の実行者として犯罪を犯したという意識は最後までありません。彼は、実際にナチスの罪悪をおかしたのは、自分たちの指導者であるといっています。アイヒマンが自分の罪責感、罪障感をもったということは私も書きませんし、ハンナ・アレントも書いていません。」
 原「アイヒマンは、最後まで罪を否定して絞首刑に処刑されています。最終弁論が掲載されていまして、アイヒマンは、私は皆に言われているような冷酷非情な怪物ではありません。私はある誤解の犠牲者なんだと主張して、彼の弁護人もスケープゴートなんだと主張したことを踏まえて言われているんですね」
 大江「質問がよくわかりません」
原「要するに罪責感をもっていなかったと」
大江「ハンナ・アレントは、アイヒマンは極悪人であるとは言っていません。大きい罪を犯す人間が極悪人であるといういい方に私は賛成しないのです。アイヒマンがスケープゴートとハンナ・アレントが書いていますが、私はハンナ・アレントの本を愛読してきた人間ですが、スケープゴートという言葉には強い意味がありまして、私はヒトラーの、ゲッペルスのスケープゴートだと、指導者達がそういう犯罪を起こしてしまった。私は実行者としてそういうことをやったとは一度もないと繰り返し言っているでしょう。私は、ヒトラーの代わりに絞首刑に処せられるんだと」
 原「アイヒマンが公衆の前で、絞首刑にすべきだと主張したことを好意的に評価しておられるということですか」
 大江「好意的でも悪意的でもない。事実を言っている。公開絞首刑ということが、あたかもイスラエル法廷で、あるいはドイツ法廷で行われるものであるという誤解が生じるというもので、公開絞首刑というものはない。彼は公開絞首刑になると考えていたとは思えません」
原「ドイツの青年たちの罪責感を取り除く、その犠牲になるということですか」
大江「ドイツの青年たちの罪障感を取り除いてやるというのが理由ではない。それを主張するかどうかは別のこととして、事実をいっているのです」
原「ハンナ・アレントは、アイヒマンの言葉に対して『無意味なおしゃべり』だと言っていますね。ご存じですね」
大江「はい、知っております」
原「無意味なおしゃべりだと言っていることについて、」
大江「ハンナ・アレントが無意味なおしゃべりだと言っているのは、公開絞首刑のことではございませんけれども、アイヒマンの言っている自己弁護の言葉すべてが無意味なおしゃべりだといっているのでありまして、実際にハンナ・アレントが言ったことは、なんらかの実を結ぶというとはありえないということ、それは法廷において自分自身を弁護する言葉として無意味なおしゃべりだということです。」
原「赤松さんがアイヒマンと同じ言葉を法廷で言うことを想像してヘドをもよおすと言っておられるのだと読みとったんですけども、これはまちがいなんですね」
大江「私が言っていることは先ほど申しました。そこから、今言われた質問は出てこないのですが」
原「アイヒマンのように裁かれてしかるべきだったというのは、赤松隊長が直接の責任者として沖縄法廷で裁かれるべきだったと言われていると読み取るんですが」
大江「もう一度くりかえしますが、渡嘉敷島での集団自決について、」
原「まちがいか、まちがいでないか、答えてください。」
大江「今おっしゃったことはまちがいです。」
原「私の読み取りがまちがいだといわれるんですけど、大江さんは通常の読者にそのような読みとりを期待しておられるんですか」
大江「あなたは違う読み取りをされている。」
原「大江さんは一般の読者が大江さんの書かれたものをどのように読みとるべきだといわれるんですか」
大江「あなたが読者の代表だといわれれば、その証拠を見せてください」
 
《傍聴席から笑い声が起こる》
裁判長「傍聴席から笑い声等不規則な発言をされると、記録ができません。以後そのようなことをされると退廷を命じます。」
 
原「つぎに『命令』の言葉の意味についてですが、『軍の命令』と言われたわけですけど、『沖縄ノート』には、『縦の構造』という言葉も、説明もありませんね。」
大江「はい。自分の文章に対する誤読というものが、曾野綾子さんの文章にも原告の文書にもあるので、そこでそれを明確に説明する必要があると思って、日本軍の命令、32軍の命令、慶良間列島の2つの守備隊の命令というふうに、大きい存在としてとらえるんだと」
原「そのことは『沖縄ノート』には書いておられませんね」
大江「その言葉は使っておりません」
原「そうですね。当時、70年に書かれたときに個人の隊長の命令と区別する形での軍の命令、そのようなアイデアを書かれていませんね」
大江「書いておりません」
原「『沖縄ノート』の中では、集団自決を引き起こしたことについて具体的に書いておられますね。(69ページ第2段の部分を示し、読む)ここでは集団自決の命令を具体的に書いてありますね。他にも1ヵ所『命令』という言葉が入っています。『命令された集団自決』、211ページ『若い将校たる自分の集団自決の命令』と、読者は、ここで使われている『命令』という言葉は、上の『沖縄戦記』から引用された具体的な『命令』を指しているんだと読みとるんだとおもったんですけど、それはまちがいですか、不十分だということですか」
大江「不十分だということより、まちがっているとおもいます。理由を申しましょうか」
原「いえ、結構です。一般の読者には、『沖縄ノート』に書いてない、説明もないものを読みとれというのはちょっと無理ではないか」
大江「無理ではないと思います」
原「『陳述書』10ページには、『沖縄戦史』からの引用について、当初『鉄の暴風』の引用を考えたが、ここには赤松氏の個人の名前が二度出てくるので、『沖縄戦史』からの引用にしたということですね」
大江「そうです」
原「『鉄の暴風』の(記述を読み上げ)、ここを引用すれば、赤松さんの名前がでてこないところを引用すれば、赤松さんの名前なんかでてこないで、問題ないと思うんですが」
大江「この文章よりも上地一史さんの文章の方が、もっとはっきり説明していると、おこしたことについて考えたからです」
原「『陳述書』には、赤松さんの名前が出てくるから選ばなかったんだととれたんですけれども、中味、内容なんですか」
大江「いいえ、両方とも赤松さんの名前が出てくるんですよ。その中で、とにかく人の名前を出したくないと考えて、その部分を引用したんです」
原「あえて『沖縄戦史』の記述を引用した理由は、そのあとに続く『沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をと』ったというふうに書かれていますが、この命題を導き出すためには『沖縄戦史』に書かれた命令にある『部隊の行動を妨げないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』という内容が必要だったと理解してよろしいですか」
大江「いいえ、まちがいです。今言おうとされたことというのはどういうことですか」
原「沖縄の命題とぴったりマッチするのが『沖縄戦史』かと思ったのですが、それはちがうのですか」
大江「ちがいます。『沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題』は、さきほどの『鉄の暴風』の文章からも読みとれますし、この文章でもこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場、集団自決という現場を考えるときに、それ以上に血なまぐさい、酷たらしいことを 例証することはないと考えたのです」
 原「陳述書の13ページに戻ります。命令について、『タテの構造による日本軍が多様な形で口に出され、伝えられ、手榴弾の配布のような実際行動によって示された』とされています。ここでは命令が隊長個人の行為ではなく、日本軍による行為だという説明がなされています。ところが『沖縄ノート』には69ページに『この事件の責任者は今なお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、今本土の日本人が綜合的な規模でそのまま』というのがあります。『この個人の行動の全体像』というのをお聞きしたいのですけど、事件の責任者とされている赤松隊長と梅澤隊長の行動というふうに読みとってよろしいですか」
 大江「いえ、それはちがいます。ここで述べておりますのは、渡嘉敷島の隊長が25年経って、沖縄を訪れて、軍の命令という風なことを認めるという形で、この集団自決ということをあがなうということをしないで、こういう出来事は沖縄に捨てさられ、本土で捨てさられたと信じて沖縄にやってきた、その全体のことを、私はこの内面を想像しているわけです。」
 原「その個人というのは、この事件の責任者と同じと解釈していいんですか」
 大江「沖縄にやってきている元渡嘉敷島の守備隊長です。」
 原「この行為全体の中に、自決命令を発したということも含めるんですか」
 大江「いいえ、ちがいます。説明しましょうか。最初からいっていますように、集団自決の命令というものは、日本軍の命令であり、第32軍の命令であり・・・」
 原「先生の認識として聞いているんですけど、読み取りの仕方として、この個人の行為全体といわれますと、さきほどの命令も含めて個人の行為全体をいっておられると思うんですけど、それはちがうんですね」
 大江「それはちがいます。個人の命令として、すなわち元守備隊長、個人に発した命令として集団自決を論じたことは一度もありません。」
 原「しかし、そういう読み取りを読者に要求する、期待するというのは無理じゃないんですか」
大江「あなたが一般の読者の代表だと言われれば、あなたはどういう立場からそれを推察されるのですか」
原「いや。『あまりに大きい罪の巨塊』という言葉について、罪の大きさをいうんだと言われました。」
大江「ですから、すなわち死体、死体の数の多さ」
原「読んだときに主観的なことを踏まえていわれたのかと思ったのですが、例えば思想だとか、意図だとか、なんのためにそういう罪を犯したのかといったような関係で、『あまりに大きい罪の巨塊』という言葉が出てきたのかなと思ったのですが」
大江「そうではないですね。驚きを感じて聞いています。説明しましょうか。」
原「いえ、結構です。」
 
《原告側代理人が立ち往生状態で、代理人交代して尋問》
《これからあとは、イザブログの修正に戻る》
原「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、その根拠を教えてください。赤松さんは一連の経過の中で、どの場面で中止命令を出せたと考えているのか、」
 大江「実際に行われたことですから、『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそば、北山に、軍隊のそばに島民たちを集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、重大なターゲットに集めるということですから、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」
 原「当時の渡嘉敷島で安全に逃げる場所というのはどこにあったのでしょうか」
大江「どこにあったということはですね。集団自決の場所から逃げてきて生命を救われた人がいることはご存じですか」
原「はい。それは無目的に行動した結果、たまたま助かっただけではないですか」
 大江「無目的に逃げて行って助かる場所は、非常に珍しい場所だとは思いませんね」
 原「集団自決を止める、止めよというのはどういう時点で予見して止めればよかったのですか」
 大江「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった。渡嘉敷島というのはそんなに狭い場所ではない」
 原「前提として、集団自決をしそうだということを赤松隊長は認識できなければいけません。どうして認識できたのですか」
 大江「私は、隊長の個人の性格や能力とか感受性というのではなく、渡嘉敷島の隊長として手榴弾を配るときに、貴重な手榴弾を配っている。当日も20発渡している」
原「どの時点で集団自決をするだろうと予見できたんですか」
大江「それでは、集団自決をするだろうと考えないで、手榴弾を渡すんですか」
原「手榴弾を渡したというのはいつの時点のことですか」
大江「それはずっと渡してきました。そして集団自決が行われた日に新たに20発渡しているんです」
原「そう考える根拠はなんですか、証拠は」
大江「この裁判に提出されている書証が2つある。金城重明証言、吉川勇助陳述書が出されている。手榴弾を与えられたことを書証として提出されています。」
原「金城氏が証言しているのは、3月20日のことである。手榴弾の配布は、米軍の攻撃の前で結びつかないんではないですか」
大江「吉川勇助さんが証言している。金城氏の証言も連動している。」
 
 《原告代理人が、交代して質問》
原「赤松さんは週刊誌に掲載された集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが、集団自決が行われた夜、まったく知らなかったというのはうそだと決めつけておられるんですね」
 大江「事実ではないと思う」
 原「その根拠はなんですか」
 大江「吉川勇助さんの書証の中に『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のいるところにまで押し寄せた』というのがある。こんなことがあって、それで、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」
原「吉川さんの陳述書は、この裁判で出てきたものですね。書かれた時点では、何を根拠に書かれたのか」
大江「私がこの文書を書いた、929日までこの裁判のなかで新しい証言が出てきている。それによって、私は新しい事実をどんどん知った。」
 原「『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令が出たということを事実だと考えているのか」
 大江「事実だと考えている」
 原「手榴弾を事前に配布するということについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米軍に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」
 大江「私には考えられません」
 原「曽野綾子さんの『ある神話の背景』は、昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」
 大江「発行されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんについての批判が3カ所あるから読んでくれ』と送ってきた。それで、急いで通読した」
 原「本の中には安里巡査、知念朝睦さんの証言が掲載されています『命令はなかった』という2人の証言があるが」
 大江「私は、その本を読んだ時に、その証言は守備隊長を熱烈に擁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」
 原「ニュートラルではないと判断した根拠は」
 大江「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」
 原「しかし、この本の後に発行された『沖縄県史10巻』では、8巻の集団自決の命令について訂正しました。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松隊長命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」
 大江「『沖縄県史10巻』も読みました。教科書裁判の書籍も読みました。家永さんが歴史家の検証に耐えないと考えたということですか。私には(訂正や削除した)理由が理解できません。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれた部分が『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはないと考えた」
原「上地さんの『沖縄戦史』の本の記述が、家永さんの『太平洋戦争』からも削除されたんではないんですか」
大江「この本で括弧して上地一史さんの文ということを示して書いています」
原「要するに、事実か、事実でないか知らないということですね」
大江「いいえ、私は、上地先生が書かれたものによって、書いたのです」
原「家永さんや、『沖縄戦史』から省かれた文だという認識はなかったのですか」
大江「いえ、読みあっていただければわかるんですが」
原「抵触しないということですか」
大江「はい、そうです」
 原「『沖縄戦を考える』という大城将保さんの本なんですけれども・・・」
 
《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。そして、ペットボトルのお茶を飲み、ボトルを傍らに置いて証言を続けた》

 原「『沖縄戦を考える』に、曾野綾子氏は、これまで信じられていた神話に対して、初めて怜悧な史料批判を加えて、従来の説を覆した。『鉄の暴風』や『戦闘概要』を丹念に分析して、赤松元隊長以下元隊員たちの証言とをつきあわせて自決命令がなかったこと、集団自決の命令が誇大化されていることを立証した。この事実関係については、現在のところ反証は出てきていないと書いてあります。そのことについてはどうですか」
 大江「いえ、それを考慮する必要はないと思います」
原「陳述書に山川泰邦さんの『沖縄戦記』を引用されています。この復刻版が昨年10月に発行されているんですが、ご存知ですか」
大江「復刻版は見ておりませんが、内容が違ってます」
裁判長「復刻版については、著者が必ずしも改訂したものとは言えません」
大江「私は存じておりません」
原「復刻版では座間味島のことについても書いていますが、どう考えますか」
大江「私は最初から申しておりますが、渡嘉敷島の、座間味島の守備隊長の命令、軍全体の命令、32軍の命令として、ひとつの塊としての命令としてあったということは言っていますが、個人名を上げては一切書いていません」
原「見解の相違のようですが、私は隊長が命令したというように読み取れるんですが」
大江「私は個人名を上げて命令したということは書いていません」
原「曾野綾子さんの書いたもの、審議会で発言されたものを誤読だといわれましたが、赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読みとったのは誤読か」
 大江「内面は代弁できないが、赤松さんは私の『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しくて分からなくて読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた『ある神話の背景』通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」
 原「作家は、世間に対して、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」
 大江「予想がつくと思いますか」
 原「責任はとれない、ということか」
 大江「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」
 原「今日、大江さんが述べられたことは、『沖縄ノート』に書いてありませんね」
大江「はい、書いてありません」
原「読者が理解できるように書くのが作家の責任だとは思われませんか」
大江「70年に『沖縄ノート』を書き、それに関してずっと考えてきまして、誤読というものを考えるんですが、50年小説を書いてきて、誤読に対して訂正し責任を取るということは考えません」
 
《被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》

 裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」
 大江「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」
 《大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》

11.9沖縄戦裁判本人尋問報告集会の弁護団報告
    『梅澤・大江氏はなにを語ったか』


近藤卓史弁護士
 梅澤さん、赤松さんの反対尋問から報告します。
 梅澤さん本人が、この法廷で、「私が直接命令を出した」と言うわけがないので、当然主尋問ではこの点を否定しました。では、反対尋問ではどうだったのか、注目すべき点をあげましょう。
1.座間味島住民に、「日本兵から手榴弾を渡され、いざとなったら自決せよと言われていた」という証言は元々ある。さらに教科書問題以降、座間味島住民でそれを裏付ける証言をされた人もいる。梅澤さん本人は、(宮城)初枝がそういうふうに自決しなさいと言われてたという事実は知っていたがそれ以外は知らないと主張。しかし、手榴弾は重要な武器だから自分の許可なしに住民に渡すことはないと認めた。日本軍兵士から住民がこれで自決せよと手榴弾を渡された事実は知らないと言ったが、自分の許可なしに配られることはないということは認めた。本人は、最高指揮官だから、日本軍の強制・責任・命令したことを間接的に認めたと言ってもいい。
2.梅澤さん本人は、主尋問では、自分には全く責任がないと主張。自分は宮城さんが来たときに自決するなと言ったんだから、全く責任がないと言っていた。しかし本人は、昭和55年に宮城晴美さんに手紙に書いている。その手紙を自分が書いたことを認めた、そこには、座間味の集団自決について軍の責任があると書いている。それを示されると、梅澤さんは「一番悪いのはアメリカ軍だ」と言ったが、55年当時書いていることは間違いないとし、集団自決が軍に関係がないとは言えない、と認めた。
3.沖縄ノートを読んだのは昨年ということ。ノートにはあなたが自決命令を出したと書いてありますかと聞いたら、ありませんと答えた。なぜ訴えたのかという意図が明らかになったと思う。
4.赤松さんの弟さんですが、そもそも赤松隊長から具体的に集団自決については聞いていないと確認された。具体的なことを聞いていない、知らないまま提訴している状況がはっきりした。
5.『沖縄ノート』については兄のことをかいてあるところをぱらぱら読んだだけ。敬愛追慕の情が侵害されてるという主張について、果たしてそういうものがあるのかと思わせる証言だった。
6.二人の証言が、今日の証言で原告側として新たに何か特別に訴えるものはなかった。

秋山幹男弁護士
大江さんの尋問
1.『沖縄ノート』のテーマは、沖縄が戦前、太平洋戦争、戦後において本土のために犠牲になってきた、それをまず取り上げたものだ。太平洋戦争における本土の犠牲になった例として集団自決を取り上げた。そして、沖縄が本土のために悲惨な犠牲を強いられてきたことについて、本土の人たちは十分な自覚がないことを取り上げた。その例として、渡嘉敷島の守備隊長が1970年に「おりがきた」と考えて、那覇空港に降り立ったところ沖縄の人々の拒絶反応にあったという出来事を取り上げた。沖縄の人の受け止め方と本土の人の受け止め方の大きな裂け目として取り上げ、日本人壮年男性一般の沖縄に対するあり方として、渡嘉敷の守備隊長をの内面を、想像した。
 その意味で、『沖縄ノート』は大江氏を含む日本人としての自己批判の書である。守備隊長の名前を挙げてないが、それは、日本人の一般的な沖縄に対するあり方を批判することが目的であって、隊長個人を非難するつもりではないからだ、と大江氏は述べた。
2.「あまりに巨きな罪の巨塊」と書いたことについて、曽野綾子氏は、大江氏が赤松隊長を大悪人であると非難していると、『ある神話の背景』の中で書き、それを原告が訴訟で引用しているが、まったくの誤読である。集団自決により死んだ多数の島民のことを「巨塊」(おおきなかたまり)といっているのであり、隊長のことを「巨魁」(悪人)といったのではない。
3.また、原告は、「座間味島の守備隊長・渡嘉敷島の守備隊長が自決命令を出した」と書いているから名誉毀損だと訴えているが、『沖縄ノート』は、「日本軍の自決命令」としており、「隊長の自決命令」とは書いていない。鉄の暴風などの文献には、隊長命令があったと書いてあったが、日本国−日本軍−沖縄の第32軍−慶良間の各守備隊のタテの構造が住民に自決を強いたことが本質であったので、「日本軍の自決命令」とした。軍官民共生共死の一体化という第32軍の牛島司令官が出した方針に基づいて、軍が自決を命じたという構造がはっきりある、手榴弾が配られたということが動かぬ証拠になる、と大江氏は述べた。
3.曾野綾子氏が、「美しい心で死んだ人たちのことを命令で強制されたとするのは清らかな死を貶める」との富野元少尉の言葉を引用しているが、このようなとらえかたは全くの間違いだと述べた。
4.また、大江氏は反対尋問に対しては、堂々と冷静に対応し、証言が崩れることはまったくなかった。
5.12月21日の口頭弁論期日で、双方が最終準備書面を陳述し、結審し、3月ごろまでには判決となる見通し。
6.裁判の構造を再確認すると、原告梅澤氏は、『沖縄ノート』と、家永三郎著『太平洋戦争』を名誉毀損で訴えている。しかし、『沖縄ノート』には梅澤氏が自決命令を下したとは書いてないから、前提を欠いている。『太平洋戦争』には梅澤隊長が自決命令を下したと1行程度だが書いてある。これについては真実性の証明が必要であるが、日本軍の自決命令があったことは立証されており、軍の命令はすなわち最高指令官である隊長の命令にほかならないと考えられる。原告赤松氏は、『沖縄ノート』が、故人である赤松隊長について自決命令を出したとの虚偽の事実を書いて敬愛追慕の情を違法に侵害したと主張しているが、『沖縄ノート』には、赤松隊長の名前は出していないし、隊長が自決命令を下したとも書いていない。だからこちらも成り立たない。
7.教科書検定問題以降、新たな証言が出るなど、立証を重ねてきた。座間味島でも日本軍が住民に対して手榴弾を渡したという証言がたくさんでている。日本軍の強制はかなり立証されている。助役が命令したのではないということも、生き残った妹さんの証言でわかった。
 この裁判を受けて教科書検定の問題が起きた。この裁判の勝敗だけでなく、教科書検定は間違っているということははっきりとさせたい。軍の命令・強制に関しては絶対勝たないといけないと考え、一生懸命主張立証を行ってきた。


  沖縄戦強制集団死の日本軍関与
      教科書検定で文科省が削除させる
 3月30日のテレビ・ラジオの放送と31日新聞各紙は、08年度用高等学校教科書(2・3年生用)の検定結果を発表しました。今回の検定では、224点が申請され、2点(いずれも生物の教科書)が不合格、他は検定意見を受けて修正した上で合格となりました。

 自衛隊派兵やイラク戦争についての記述を修正させただけでなく、「集団自決」(集団死)について24年ぶりに検定意見を付けました。沖縄戦の集団死(「集団自決」)は、日本軍の命令によって行われた悲劇であることは通説となっています。家永教科書裁判では、文部省が「日本軍による住民虐殺だけでなく、集団自決も書け」と検定で修正意見を付けたことが問題になったのです。それを、日本軍の元隊長が「命令していない」と言って、訴訟を起こしたからということで、書き換えさせ
ることは断じて許せません。
 文科省の記者クラブでの説明や国会答弁では、「日本軍の命令の有無について断定的記述を避けることが適当である」「従来、日本軍の隊長が集団自決命令を出した、というのが定説であったが、いろいろな証言・意見が出ている。」「最近の著書においても軍の命令の有無が明確ではない。当時の関係者から『沖縄集団自決えん罪訴訟が起こされ、原告(座間味島の守備隊長だった元少佐)の意見陳述』がある」などを理由にしたと述べています。
 0歳の子どもが自決することはないとして、近年では「集団自決」の用語を使わず、「集団死」「強制集団死」という用語が使われています。
その点では、新しい研究・学説といえますが、文科省があげた曾野綾子氏の著書は1973年 発行のものですし、2000年以後発刊された宮城晴美『母の遺したもの』(高文研)、林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店)でも、隊長命令があったとは書いてないものの、日本軍によって「集団自決」を強制されたということははっきり書いています。
 それだけではなく、裁判所は、「平成17年(ワ)第7696号出版停止等請求事件」と呼称しているのに、文科省は原告側が使っている「沖縄集団自決えん罪訴訟」を使ったことも重大問題です。この点は、伊吹文科相も赤峰議員の質問で「適当ではない」と陳謝しました。裁判は、8回の口頭弁論が開かれましたが、原告である梅澤隊長は陳述書を提出しただけで、証言もおこなっていません。それなのに、一方の主張だけをとりあげて、検定意見を述べる教科書調査官のやり方は違憲・違法行為そのものです。
 小・中学校の教科書では、すでに自主規制によって沖縄戦の記述がどんどん減ってきています。なかには、まったく書かないものまであらわれています。
 新しい歴史教科書をつくる会や自由主義史観研究会の歴史修正主義者たちの策動を許さず、よりよい教科書を子どもたちに手渡すための運動をいっそう強めましょう。
  
高等学校日本史教科書の「集団自決」(集団死)についての検定結果
 山川 A




 
申請図書の記述


 
島の南端に追い詰められた残存部隊は、アメリカ軍の火焔放射器を使った徹底的な掃討作戦にあい、「女子学徒隊」も集団自決に追い込まれた。6月末までに日本軍の組織的抵抗は終わった。島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。
検定意見 沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である
修正された記述

 
島の南端に追い詰められた残存部隊は、アメリカ軍の火焔放射器を使った徹底的な掃討作戦にあい、「女子学徒隊」も集団自決に追い込まれた。6月末までに日本軍の組織的抵抗は終わった。島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、そのなかには日本軍に壕を追い出されたり、自決した住民もいた。
三省堂 B 申請図書の記述 さらに日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた。
検定意見 沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である
修正された記述 追いつめられて「集団自決」した人や、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑を理由に殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた。

東書 A

 
申請図書の記述
 
沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた。そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や集団で「自決」を強いられたものもあった。(沖縄渡嘉敷島「集団自決」の資料付)
検定意見 沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である
修正された記述
 
沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた。そのなかには、「集団自決」においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった(沖縄渡嘉敷島「集団自決」の資料付)。
 (なお、この本文記述についての資料〈別掲〉には、修正意見はついていません)







 
沖縄渡嘉敷島「集団自決」
 およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは。子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。
 わたしたち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました。
                          (『戦争の真実を授業に』より)
 実教 B

 
申請図書の記述
 
また日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺害されたりする事件が多発した。
 
検定意見 沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である
修正された記述
 
また県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、日本軍により幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺害されたりする事件が多発した。
 清
水 B
 
申請図書の記述 ←図4 沖縄戦 現地召集の郷土防衛隊、鉄血勤皇隊、ひめゆり隊など非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた。
検定意見 沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である
修正された記述
 
←図4 沖縄戦 現地召集の郷土防衛隊、鉄血勤皇隊、ひめゆり隊など非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには集団自決に追い込まれた人々もいた。この沖縄戦ではおよそ12万人の沖縄県民(軍人・軍属、一般住民)が死亡した。

  抗議声明

高等学校歴史教科書検定における沖縄戦の「集団自決」の記述から
「軍の強制」を削除させたことに対して抗議する

2007年3月30日に公表された高等学校歴史教科書の検定結果によれば、文部科学省は、沖縄戦における集団死・「集団自決」について「日本軍による自決命令や強要があった」とする5社、7冊に対し「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現」として修正を指示し、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させたことが判明した。
 1982年の教科書検定時、沖縄における日本軍の住民虐殺の記述を巡って、検定により修正が加えられていることが明らかになるや「沖縄戦の実相」を否定・歪曲するものとして戦争体験者をはじめとして沖縄全体から大きな怒りと反発が起こった。文部省(当時)は、沖縄戦の住民犠牲を記述する場合は、犠牲的精神の発露としての住民自ら命を絶った美しい死であるとする意味での「集団自決」を盛り込むよう強要してきたのである。しかし、沖縄戦研究及び多くの生存者・体験者が明らかにしたことは、沖縄戦における「集団自決」とは極限状況におかれた住民が、「軍官民共生共死」の思想のもと、家族同士が殺し合うという悲惨なものであった。
 このことは、第3次家永教科書裁判の最高裁判決において、「集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防備対策、沖縄の共同体のあり方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった、というのである」「集団自決と呼ばれる事象についてはこれまで様々な要因が指摘され、これを一律に集団自決と表現したり美化したりすることは適切でないとの指摘もあることは原審の認定するところである」と明確に判示され、「日本軍によって強制された『集団自決』(集団死)」が、日本軍の住民虐殺と併せて、沖縄戦研究の定説として教科書に記述されてきた。
 今回の文部科学省の検定意見は、大阪地方裁判所で係属中の大江健三郎氏と岩波書店を名誉毀損で訴えた原告梅澤氏の主張等を持ち出し、「軍命がなかった」という一方の当事者の主張に立脚し、それが主流になりつつあると判断し、申請内容を修正させたのである。裁判は、主張書面や証拠書類等が提出されたのみであり、現在進行中である。訴訟係属中で結論の出ていない裁判の一方当事者の主張を根拠に教科書記述の書き換えを要求することは、裁判を恣意的に利用したものであり、政治的な意図が見え隠れするものと言わざるを得ない。原告らの主張する「『集団自決』は、住民が国に殉じた犠牲的精神に基づき、自ら命を絶った美しい死であった」とする一方的な歴史観を押しつけるものである。
 私たちは、この検定結果が沖縄戦の実相を歪めるものであり、戦争の本質を覆い隠し、美化するもので、沖縄の未来を担う子どもたちはおろか、日本全国の子どもたちにこのような内容の教科書がわたることを絶対に許すことはできない。
 ついては、今回の検定結果に強い抗議を示すとともに、文部科学省は今回の修正指示を撤回し、申請時の文章に戻すよう強く要求する。
宛 文部科学大臣
2007年4月2日
                                        大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会


ニュース第5号

「おりがきた裁判」―大江・岩波沖縄戦裁判の射程
  大江・岩波沖縄戦裁判は2005年8月5日提訴以降、本年1月19日で第7回を数える。 これまで原告側、被告側双方から準備書面の応酬がなされてきたのだが、裁判体制という点では原告側・「冤罪訴訟を支援する会」の方が先を進んできた。こちら側の弁護団3人体制に対して、かれら原告側は弁護団36人という巨大体制で臨んできているのである。原告と「冤罪訴訟を支援する会」がこの裁判に特別の意味と比重をかけてきていることを感知するのである。だが支援組織の行動を見ていると、傍聴券の抽選要員としてどっと押し寄せてきては、抽選に当たるや傍聴もせずにさっさと帰ってしまう者もいる。そのため法廷は空席ができることさえある。こちら側は抽選に外れて傍聴できないメンバーが多数いるというのに。これは一体何なのか。

 私は、第3回裁判の傍聴の機会を得たが、そのときの原告側・木地晴子弁護人の陳述、というよりアジテーションの鮮烈な印象が忘れられない。どんな陳述であったか。(渡嘉敷島で)村長の音頭で天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって『君が代』をみんなで歌いました。自決はこのとき始まったのです。」「日本人が戦後の図式による呪縛から解かれ、真実と日本の本来の姿に目覚めるために、この裁判を通じて沖縄戦の真実が明らかにされる事を心から望んでいます。そして、日本人として今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えて欲しいと思います。」と、彼女は朗々と陳述書を読み上げたのであった。(傍点筆者)

原告とその「支援する会」の狙いは明白である。「名誉毀損」裁判と称して、実質上、沖縄戦における日本軍(皇軍)の名誉回復(美化)を図り、皇軍隊長がいかに「沖縄住民を守ろうとし、そして誇り高いものであったか」という逆転物語の創造にある。そして、それを通して沖縄戦自体の史実(歴史性格)の転換を図ろうとしているのである。
彼らは、沖縄戦の実相にはまったく触れることなく、渡嘉敷島における集団自決は曽野綾子が書いた碑文に依拠して「美しい愛」によるものだったと言い切っているのだ。
さらに「日本の名誉を守り、子どもたちを自虐史観から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻しましょう。…」という支援する会のよびかけ文に見られる狙いは「つくる会」の教科書記述書き換え運動と連動したものであることも物語っている。

 私はこの裁判を「おりがきた裁判」と呼びたいと思う。それはどういうことか。この裁判の被告・大江健三郎は、出版指し止めを要求されている彼の書『沖縄ノート』で次のように述べている。
「旧守備隊長が、かつて『おりがきたら渡嘉敷島に渡りたい』と語っていたという……おりがきたら、この壮年の日本人は、いまこそおりがきたと判断したのだ」
「次第に希薄化する記憶、歪められた記憶に助けられて罪を相対化する。続いて彼は自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いやそれはそのようではなかったと、・・・1945年の感情、倫理観に立とうとする声は沈黙に向かって次第に傾斜するのみである。誰もかれもが1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮の中で、彼のペテンは次第に独り歩きを始めただろう。本土においてすでにおりはきたのだ。かれは沖縄においていつ、おりがくるかと虎視眈々に狙いをつけている。」(『沖縄ノート』)
1945年の事実から60年が経った今、原告たちは、もはや、1945年の事実、感情、倫理観は本土のみならず、沖縄においてさえ沈黙し消失したと認識した。そして、ついに「おりはきたのだ」と踏んでこの裁判を仕掛けてきたのだ。彼らにとっては、戦後史は「自虐史観」派、「東京裁判史観」派に牛耳られ続けてきたが、いくつかのまやかし文書に支えられて座間味島、渡嘉敷島で「隊長命令はなかったのだ」という一点を突き出すことによって、戦後史の定説(沖縄戦と皇軍をめぐる史実)の転換を図ろうというわけである。

私たちは「おりがきた裁判」とさせてはならない。そうではなく、「ヤマトンチュウの戦後平和思想を問う裁判」として位置づけてこの裁判に向かい合わなければならないだろう。
この間の裁判過程で私たちは、研究者・証言者の協力によって「おりがきた」などとは言わせない史実の新たな発掘・証言、さらには「沖縄戦」および「集団自決」概念の深化・構造化をなしてきた。
勝手な物語作りを許さない運動を拡大し、「沖縄戦・アジア太平洋戦争」を21世紀世界に位置づけていくような歴史の創造と実践をこの裁判は私たちに要請しているのだと思う。


ニュース第4号
  (2007年1月)
 第6回口頭弁論が11月10日、大阪地裁で開かれた。
 これまで原告梅澤・赤松側は、軍命の有無が争点であり、「軍命はなかった」と主張し続けてきた。その根拠が1952年に公布された「戦傷病者戦没者戦没者援護法(援護法)」。住民たちは、援護法の適用を受けたいがため、「軍命があった」ということにした、それが「風説」「神話」になったというものだ。
 これに対し、被告大江・岩波側は、島の住民たちが戦後一貫して「軍命があった」と証言していることを「援護法」以前の1950年に出版された『鉄の暴風』(朝日新聞社刊、のち沖縄タイムス刊)などを例にあげて反論した。
 これにはさすがに原告側も、自分たちの「矛盾」を修正せざるを得なくなったのだろう。そこで、今回、いきなり持ち出してきたのが「思いこみ」説、つまり「住民たちは『軍命があった』と思い込んでいた」という論理だった。
 原告側にとっては、一歩譲歩を余儀なくされた、というところだろうが、それでもその後の展開はあいかわらずだった。
 住民たちが『軍命』と思い込んだものは、 実際は村の助役ら幹部が発したものである。自分だけ生き残ったため、保身のため隊長に罪を着せた幹部もいたー。あげくの果てには、沖縄のドキュメンタリー作家・上原正稔氏の記述を借り、「1人の人間をスケープゴートにして『集団自決』の責任をその人間に負わせてきた沖縄の人々の責任はきわめて重い」と主張したのだ。
 初弁論からちょうど1年あまりが過ぎた。双方の主張は今回でほぼ出そろった格好。
 夜は報告・学習会、沖縄戦研究者で沖縄国際大学講師の津多則光さんが「原告のねらいを沖縄から衝く」と題して講演した。原告側の書面を詳細に分析してきた津多さんは「ターゲットは沖縄だけではない。原告は沖縄戦の実相を変質させ、さらに国家主義の復活を狙っている」と警告した。


雑誌『正論』による沖縄戦の真実をゆがめる記述に抗議する

雑誌『正論』による沖縄戦の真実をゆがめる記述に抗議する
 産経新聞社が発行する雑誌『正論』2006年9月号に『沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実』という論文が発表された。この訴訟は,昨年8月5日に大阪地方裁判所に提訴され,現在係属中であるが、同訴訟の原告ら弁護団員のコ永信一氏が訴訟における原告の主張をそのまま展開したものである。
 この裁判における原告は、沖縄戦当時に座間味島の隊長であった梅澤裕氏と渡嘉敷島隊長故赤松嘉次氏の弟赤松秀一氏であり、被告は滑笏g書店と『沖縄ノート』の著者である大江健三郎氏である。原告らは「両隊長の自決命令はなかった。」と主張し、滑笏g書店発行の『沖縄ノート』『太平洋戦争』『沖縄問題二十年』の虚偽の記述によって名誉を傷つけられたとして、被告らに対し、出版停止・謝罪広告及び慰謝料を求めた訴訟である。(但し,9月1日に『沖縄問題二十年』については訴えを取り下げた)更に昨年の提訴と同時に『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』が結成され「梅澤・赤松両氏の名誉を回復するだけでなく、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す国民運動にしなければならない。」という目的を果たすべく法廷を利用したプロパガンダを展開し、今回の雑誌『正論』に発表されたコ永信一氏の論文はその一環として出されたものである。これは同時に、沖縄戦の体験を持つ県民に対する挑戦ともいえよう。
 私たちがこの論文について看過できないと考えたのは、第一に軍隊によって強制された集団死について、原告らと「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」が、この裁判をとおして「愛国心のために、自らの命を絶った。」として世間一般に流布するという目的にある。また彼らは、沖縄戦研究者の書籍や論文の中から自らに都合のいい文言だけを抜き出して沖縄戦研究者も原告の主張を認めている、という印象を与えるために、沖縄戦研究者の名前を利用している点である。
 彼らは、裁判官に「軍命がなかった。」という事実認定をさせることによって、沖縄戦の真実を歪め、研究者が長年積み重ねてきた沖縄戦研究の成果を抜本的に変質させる意図のもとになされたものとして、私たちは看過することはできない。
 沖縄戦の真実は、戦場化した沖縄を軍が統制し、軍と共に行動しその命令に従わざるをえなかった住民が、軍によって食料強奪や壕追い出しをされる中で恐怖と飢えに追い込まれ、或いはスパイ嫌疑によって殺害され、また死を強要される等、数多くの悲惨な犠牲を生み出したというものである。この真実をねじまげるということは、沖縄県民に向けられた攻撃ともいえよう。
 私たちは、沖縄戦の真実を捻じ曲げる目的で書かれたこの雑誌『正論』の論文に対して、沖縄戦研究者として、また沖縄県民として到底容認することはできず、厳重に抗議する。今後、新聞紙上等において、それぞれが詳細な主張を行い、できうるならば裁判所に対しても反論の意見書を書証として提出する決意である。
 以上、共同して意見表明とする。    2006年10月17日
                安仁屋政昭  大城将保  宮城晴美


 ニュース第3号 (2006年10月)   
 「大江・岩波沖縄戦裁判」の第5回口頭弁論が9月1日、大阪地裁で開かれた。
 支援連絡会が正式に発足してはじめて迎える期日。傍聴希望者は120人余り並んだが、私たち(被告「大江・岩波」)の側が、明らかに上回っていた。仕組まれた提訴から1年、ついに数の上でも圧倒したといっていいだろうか。
 原告側はこの日も、座間味島守備隊長だった梅澤裕氏と渡嘉敷島守備隊長だった赤松嘉次氏(故人)による「自決命令はなかった」という主張を展開した。「命令はなかった」とする証言が収録された新聞記事などを挙げ、証言したとする人たちを、「沖縄の良心として顕彰する」などと礼賛した。 その1人に比嘉という82歳の元琉球政府職員がいる。原告側は、この人物が、渡嘉敷島での「自決命令」は「援護法適用のために、自らも関与して作り出した」ものだと証言した、としている。
 今回、初めて登場する証言であり人物であるが、実は連動するかたちで産経新聞が4日前の8月27日付の朝刊で大々的にこの件を報じた。リードは「渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で『強制』とされているが、信憑性が薄いとする説が有力で、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ」と結ばれている。
 なお原告側は、出版差し止めなどを求めた3冊のうち、『沖縄問題二十年』(中野好夫・新崎盛暉著)について、この日、唐突に訴えを取り下げた。前回、裁判長に「どの時点から不法行為が発生しているか。発刊時期を踏まえた主張を」などと求められていた。そもそも同書は1965年に初版、74年には絶版になっていた本だ。
 だが、残された『沖縄ノート』『太平洋戦争』にしても40年余りも前の本。今頃それをなぜ裁判に?そのあたりにも、原告側の思惑が透けて見えるのではないか。
 同日夜、エルおおさかに場所を移し、岩波書店で訴訟を担当する雑誌「世界」編集長の岡本厚さんや弁護団を迎えて学習会を開いた。参加者は約70人。講師で沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭さんは、「当時、南西諸島は軍事用語でいう『合囲地境』(ごういちきょう)だった」としたうえで、「当時は全てが軍の統制下。『民政』はなく、住民への指示や命令は、たとえ行政や地域のリーダーが伝えたとしても、住民は、『軍命』と受け止める状況にあった」などと話した。


 ニュース第2号(2006年7月)   
 沖縄戦の真実知らせたい
  「大江・岩波」支援連絡会が発足
 沖縄戦初期、座間味島、渡嘉敷島で起きた「強制集団死」(「集団自決」)をめぐり、歴史改ざんグループに訴えられた作家・大江健三郎さんと岩波書店を支援する「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」が発足した。第四回口頭弁論があった六月九日夜、エルおおさかで開かれた結成集会には、九〇人が参加した。
 冒頭、世話人を代表して、大阪歴史教育者協議会委員長の小牧薫があいさつ。政治的色彩の濃い提訴の背景について説明し、「裁判の勝利のため、被告大江さん、岩波書店と連携するとともに組織を立ち上げる必要があると考えた」と、支援への参加を呼びかけた。
 被告・岩波書店を代表して現代文庫編集部の大塚茂樹さんは、「岩波としても勝利に向けて力を出していきたい。沖縄戦の真実を歪めることは許さないという目的のため、皆さんと共闘したい」とアピール。岩波は、社内に「裁判対策プロジェクト」を立ち上げており、大塚さんもその一員だ。
 さらに、主任弁護人の秋山幹男弁護士が、これまでの経過と今後の見通しを説明。「民事裁判はスピード化している。私たちも力を振り絞って頑張りたいと思う」と力強く語った。
 参加者の中には、沖縄や東京、長野など遠方の人たちの姿も。続いて世話人が紹介され、太田
隆徳(弁護士)、東谷敏雄(子どもと教科書大阪ネット21代表委員)の両名が代表世話人、小牧が事務局長に。「裁判勝利のために被告大江・岩波書店、弁護団と連携して支援の活動をすすめる」 「座間味・渡嘉敷島で起きた『強制集団死』をはじめとする沖縄戦の真実を多くの人々に知らせる」などの方針を確認した。今後は、弁論期日にあわせ、学習会なども設定していくことになる。
 その第一弾、発足を記念して沖縄国際大学教授の石原昌家さんが「軍民一体を意味する住民の集団自決−日本軍の作戦による軍事的他殺−」と題し講演。「集団死」の本質に迫った。


 ニュース第1号(2006年5月)  
 「沖縄戦裁判」支援を
 61年前の沖縄戦当時、座間味島と渡嘉敷島で起きた「集団死」(集団自決)をめぐる裁判が、大阪地裁ではじまっています。
原告は、当時の座間味島守備隊長と渡嘉敷島守備隊長(故人)の弟。〈「集団自決」を命じたなどと虚偽の事実を著作に記され、名誉を傷つけられた〉として作家の大江健三郎さんと出版元の岩波書店に慰謝料と出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めています。昨年8月に提訴。過去3回、口頭弁論が開かれました。
 これは単なる「名誉毀損」裁判ではありません。政治的な意図で、周到な作戦のもとに提起されたものなのです。
 原告側の支援組織の事務局や弁護団は「靖国応援団」と同じ顔ぶれ。顧問には自由主義史観研究会の藤岡信勝代表も名を連ねています。
 自由主義史観研究会も昨年来、「沖縄プロジェクト」と称し、沖縄戦を標的にしています。「軍が強要したというのは虚構」だとして、「集団自決強要」という教科書記述の削除も狙っています。
 この間、裁判を個々に傍聴していた者たちで支援のあり方を模索してきました。そして、第4回口頭弁論期日の6月9日、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」を正式に立ち上げることになりました。同日夜、開く発足記念集会には、沖縄から、沖縄戦に詳しい沖縄国際大学教授の石原昌家さんをお招きし、講演していただきます。
 「軍官民共生共死」という軍の方針のもと、住民たちは鬼畜米英の恐怖を刷り込まれ、投降も許されませんでした。極限まで追い詰められ、「死」を選ぶしかなかったのです。私たちは、沖縄戦の史実を書き換えようとする動きを見過ごすわけにはいきません。みなさんもぜひ、支援の輪に加わってくださいませんか。


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