雨の涼しさは微塵も感じず、湿気が身体に張り付くような、ただ蒸し暑いだけの日が続く。

 梅雨が始まって以来、胸の好くような青空は滅多にお目に掛からなくなっていた。

 温暖前線が通った後は気温が上がるらしく、この熱気は通過儀礼のようなものなのだと、とうに諦めた。

 しかし、それにしても暑い。

 いっそのこと一刻でも雨の雫に打たれていれば、その水滴が体温を奪って幾分過ごし易くなるかもしれない――、そんな大人げないことを夢想しながら、身体に隠る熱に呻く。

 あついあついと、心の中で無意識に唱えていると、その分、体感温度が我が身に累積されるようだった。

 京楽はだらし無い姿勢を改めもせず、泣き言を呟きながら重い筆を動かし続けていた。

【 賢者の贈り物 】

 隣の席では副官代理が眼を光らせているから、うたた寝どころか、気分転換の一瞬の余所見さえ覚束ない。

 京楽は椅子に掛けた腰を改めて座り治し、堅くなった椅子の感触に眉を顰めた。

 朝から同じ体勢で座りっぱなしのため、尻が文句を訴えているのだ。

 筆持つ右手も関節が軋み、腱鞘炎ギリギリの痛みを伝えている。

 隣で作業する部下の澄ました横顔をちらりと伺った。

 艶やかな黒い髪は一纏めに縛られ、余り髪もなく綺麗に編み上げられていて、端麗な顔に掛けた硝子眼鏡も冷涼に、初夏の暑さを微塵も感じさせない。

 彼女は生真面目な部下ではなかったが、与えられた仕事に関してはどんなことでも、仕事は頗る手際が良かった。

 京楽と同じ時間に始めた隊務にも関わらず、弱音や愚痴は一つも零さない。

『面倒臭いからさっさと済ます』――、それが信条らしい。

 山のように積まれていた書類がどんどん減っていくのは、端から観ていて気持ちがいいものだ。

 他人事のようにそう思う。

 京楽はつい最近、8番隊の隊長へと昇進移動したばかりなので、副官はまだ空白のままだった。

 3席から下、名だたる席官の中から選ばなければならないことは承知している。

 しかし、今は皆それぞれの任務に出払っていて、正式に決めるまでは持ち回りで仕事を兼務して貰うことにした。

 さっさと決めてしまっても構わないのだが、だらけている自分を見てどういう反応を返すか、それを観察することで部下たちの人となりを大まかにでも把握しておきたい、そういう思惑もある。

 今日、京楽の秘書をしてくれるのは、隊の末席に成り立ての女の子だった。

 普通、隊長格相手では畏縮してしまう者が多い中、彼女は全く気後れせずにハキハキと京楽と話す。

 京楽の冗談にも乗ってくるばかりか、下ネタまで振ってくる気風の良さと剛胆さは、まるで同性と話しているような新鮮な感覚だった。

 それが作ったような物腰ではなく自然体だから尚凄い。

 なにせ、互いの自己紹介を終えた後の第一声が「あんた、種馬になってくれへんか」ときたものだ。

 これには京楽も腰を抜かすところだった。

 京楽からすれば孫・曾孫より縁遠い世代だが、いやはや大した度胸だと、密かに先が楽しみだった。

 しかし、頼もしい半面、困ったこともある。

 今は何気ない仕種で前髪を掻き上げたりしているが、京楽の筆が止まったとみるや、瞬時に扇の鉄槌が飛んで来るのだ。

 遠慮がないにも程が有る。

 サボり癖のある京楽の態度を改善するために、山じいが秘密裏に送り込んだ一番隊の手先なんじゃないか――。

 冗談半分でそう思うことがあった。

 仕事を溜め込む自分が悪いと言われればそれまでだ。

 しかし、誕生日くらい多少大目に見てほしかった。

「ねぇ、ミサちゃん」

 お茶、の『お』の字をいう間も与えられなかった。

 冷たく厳しい口調の鈴声が、風斬る鞭のように京楽目掛けて飛んでくる。

 それは実際の鞭の物理的な力よりも、よほど威力があった。

「あかん。まだ終わってないやろ」

「……はい」

 京楽は素直に頷き、熊のような大きな図体を縮めて項垂れた。

 そんなやり取りがここ一刻ほど続いており、世辞も泣き落としも鉄面皮に弾き返されることはわかっている。

 大人しく従うべきなのは、子供にだって自明の理だ。

 それでも、身体が理性の命令を聞かないのだから仕方がない。

 窓の外では薄暗い雲が少しずつ途切れはじめ、雨が遠ざかる気配を見せている。

 灰色の雲ではなく、たとえ暑くても陽の射す青い空がみたい。

「まだかな…」

 京楽は部下の地獄耳に届かぬ様、口の中で呟いた。

 10日前、満面の笑みを浮かべた浮竹が、まるで白い突風のようにやって来た。

 旧知の間柄ゆえ、お互いの隊首室へふらりと顔を覗かせるのは、さして珍しいことではない。

 しかし、特上の笑顔を浮かべた御機嫌な彼は、その発言でもって、京楽を二重の意味で驚かせた。

「さぷらいず・ぷれぜんとをするぞ!」

 そう宣言し、勢いに乗せて隊首室の引き戸を全開まで開け放ったのだ。

 バーン!という豪快な音は心の効果音そのままに部屋中に響き渡り、京楽は暫く、筆を握ったままその場に固まってしまった。

 振動がビリビリと窓硝子を震わせ、その時たまたま居会わせていたミサは、お茶を盆から机へ置いた姿勢で動きを止めている。

 時間が凍ったようだった。

 日の光を背負った浮竹は、そんな2人に構わずにこにこと眺めている。

 浮竹と会話をすると、言葉の意味を理解するのに、若干の時差の掛かる時がある。

 この日はその典型だった。

「プレゼントって…、…ボクに…?」

「そうだ。他に誰か誕生日の者がいるのか?」

 俄に思い当たる人物がいなくて首を傾げる浮竹だったが、傾げたいのは京楽のほうだった。

「いや…」

 それをボクに告げたら『サプライズ』とやらにならないんじゃ……、京楽はそう思ったが、永い付き合いだ。

 浮竹の突飛な言動には些か免疫があった。

 そうでなければ、今頃心臓の10個20個は御釈迦になっている。

「ありがとう」

 心を込めて礼を言うと、自然と顔にも笑みが浮かぶ。

 作り様もない、飾ることも出来ない、本心からの言葉と微笑みは、浮竹がそこにいるだけで、どんどん自分の中から溢れてくる。

 長い時の流れの中で、自分という存在がいつまでも変わらずにいられるのは、浮竹がやはり変わらずに、ずっと自分の側にいるお陰なのだと、こんな日には身にしみて思った。

 日頃贈り物など渡し合わない自分たちだ。

 きっとそれは特別なものになる。

 何も言わずとも、京楽には朧げに理解できた。

 浮竹は笑みを深めて「ああ、楽しみにしててくれ!」と言い、来たときと同じく唐突に扉を閉めた。

 バタバタと廊下を走る力強い音が、少しずつ遠ざかって行く。

「嵐みたいだねぇ…」

 京楽はそう呟いたが、心はまさに、この時の天気を移したような晴天そのものに変わっていた。

 部屋の空気がすっぽり入れ代わったように、温かく、柔らかく、とても清清しい雰囲気が流れている。

 先の楽しみを贈られた京楽は、気合いも十分に、渇いた筆を右手に握り直した。

「それじゃあ、ボクも頑張っちゃおう」

 現金なその様子に、隣で見ていたミサがチクリと言を刺す。

「いつもそうやと助かんねんけど」

「たまにだからこそ頑張れるんだよ、ミサちゃ〜ん」

 京楽はだらしなく顔を崩すと、浮竹から貰った元気を手の平に乗せて、いつもの3倍の早さで筆を動かし始めた。

 決済の判を押す手も淀みなく、リズム良く、左手はすらすらと項目を捲っていく。

「ほんま自分現金なやっちゃな」

そんなミサの呟きに、固めを瞑って応えてみせる。

「そうだよ、ミサちゃん。ボクは愛の力で動いてるの」

 仕事はまだまだ終わらない。

 それでも、彼の来た後の部屋は、まるで涼風が吹いたように気持ちが良かった。

 そんなやり取りがあった為、浮竹はきっと今日のうちに来るだろう、京楽はそう思っていた。

 それは確信だったが、やはり願望に近い。

 浮竹と出会ってから、京楽の誕生日は本当の意味で、心から祝える『特別な日』になった。

 彼がいるのといないのとでは、世界はがらりと変わってしまう。

 太陽の光がなければ植物は枯れ、命ある全ての物は滅び、闇の中の無の世界になるのと似ている。

 浮竹は特別だ。

 京楽はそれを自覚していた。

「せめて、あの人来るまで頑張りぃ」

「……はい」

 ミサのもっとな言い分に、大きな肩をしおらしく下げた。

 大概の事情を汲み取っているのか、ミサも京楽の心理の上手いところを突いてくる。

 しかし不承不承頷いたからといって活気が沸き上がる訳もなく、はぁ…、と深い溜め息を着き、そのまま机に突っ伏した。

 握った筆が、ミミズが這いずった後のように、机の上に黒い筋を残していく。

「コラ、ワレ…、何さらしとんねん…」

 すかさずミサの低い声が飛ぶ。

 それに続いて扇が閃くのを、京楽は間一髪で避けた。

 今は黙って受けてやる心の余裕さえない。

「だって〜」

「だってやない。さっきの返事は何やったんや」

 絶対零度の冷徹さでギロリと睨まれるが、京楽はもう電池切れだった。

「むりむり。もうむり」

 ぐりぐりと顔を机に押し付けると、その冷たさが熱い体温には心地良い。

 何故無理だと喚いて駄々を捏ねるか、大凡察している部下は、事も無げに無茶な提案をした。

「天挺空羅で呼べばええ」

「……ミサちゃん、それ大袈裟…」

 大袈裟に喚いておきながら、いざ自分よりも過激な方法を提案されると及び腰になってしまう。

「構わんやろ、別に」

「バレたら山ジイに殺されるよ」

 こんな馬鹿げたことで鬼道を使うなど愚の骨頂!と、あの流塵若火が火を吹く気がする。

「構わんやろ、別に」

「………………」

 同じ応えが返ってきて、京楽は少し凹んだ。

 その時だった。

「京楽、いるか!」

 バン!と戸が引かれ、浮竹が姿を現す。

 瞬間的に現れた霊圧は待人のものだった。

 一瞬で現れるということは、この瀞霊廷の入り組んだ敷地を器用に瞬歩で駆け抜けたからだろう。

 その急いた様子に彼の確かな愛情が込められていて、京楽はそれがまたこそばゆかった。

 仕事からの開放感も相まって、京楽は筆を宙へ放り投げた。

「いるよ、いるいる!」

 浮竹は全ての事が頭から飛んでいたようで、何の前置きもなく、綺麗に包まれた平たい箱を持ち、バッと頭上に掲げた。

「さぷらいず・ぷれぜんとだ!」

 高々と、まるで優勝旗のように自信と誇りを持って抱え上げる。

 その堂々たる宣言に気圧されるように、外の雨はぴたりと止んでいた。

「おやまぁ…」

 京楽は10日前と同じく、驚きに固まった。

 背後では筆が床に落ちる「かたん」という音が響く。

「ビックリしたか?」

「うん、凄く」

 本当に『サプライズ』のつもりだったのか。

 京楽はまずそこに驚き、ついで持っている大きな箱に驚いた。

 その大きさと形状からして着物が入っているということは直ぐに察しが付いたが、浮竹がそういった『もの』を持ってきたことは一度も無かったのだ。

 京楽は内心、肝を冷やした。

 浮竹のセンスの破天荒さは、護挺十三隊で知らぬ者は居ないほど、天下に轟いている。

 あるものは凍り付き、あるものは怒り、あるものは気絶する。

 浮竹が『ぷれせんと』を贈ると言った時、京楽は純粋に嬉しかった。

 しかし、その覚悟はどうか?

 とうとう自分の番が巡ってきたのだ。

 浮竹の贈り物の際たる物は『置き場に困る等身大人形』だったけれども、それを免れてほっとするのも束の間、その中身が気になった。

「大成功だな!」

 心底驚いてる様子の京楽に、浮竹は会心の笑みを浮かべる。

 ドン、と包みを手渡された京楽は、「開けてもいいかい?」と確認を取った。

 浮竹から貰ったからには、男の維持と沽券に掛けて、どんなものでも身につける所存だ。

 それができなくて何が無二の親友か――。

 温泉マークでも団子柄でも、苺模様だって構いはしない。

 しかし願わくば、最近人気の『兎のチャッピー』とやらの柄ではありませんように…!京楽が強くそう願ったとしても罪はなかった。

「勿論!」

 浮竹の笑顔に促され、恐る恐る、絹で包まれた桐箱を開く。

 京楽の予想どおり、それは着物だった。

 春の香りと秋の涼しさが感じられる、甘い上品さ漂う美しい打掛。

 着物自体は勿論の事、それを入れる桐箱の造型や印からも、とても繊細に織られた上物だと一目でわかる。

 京楽をはじめとする上級貴族が買うようなものは桁が4つ以上が違うが、浮竹が今まで買って来たものと比べれば破格の値段だろう。

 本当に、特別な素晴らしいものだった。

 しかし、安心するのは早かった。

 浮竹は一筋縄ではいかない男だ。

 京楽はそれを知っていたが、今回ばかりは予想を遥かに越え、斜上を先行していた。

 それは女性用の着物だったのだ。

「隊長、…」

「ミサちゃん、浮竹にもお茶を入れておくれよ!」

 それは女物やろ…?ミサがそう指摘する前に、京楽は素早く言葉を被せて遮った。

 したたか面を食らったが、立直りも早かった。

 これも偏に、日頃の付き合いが誰よりも深く長いお陰だ。

「……了解」

 目配せでそれに気付いたミサは、鋭い眼光を幾分和らげ、人の良い上司の指示に従う。

「浮竹のお茶は『羽衣』使ってね〜」

 京楽には甘過ぎるが、甘いものが好きな浮竹は『羽衣』という最上級の玉露をとても気に入っていた。

 京楽は彼には値段を伏せたまま、八番隊と十三番隊の隊舎には常備させているのだ。

「わかった。これも入れ直して来るわ」

 京楽の湯呑みを手に掴むと、ミサはその場を速やかに退出し、細長い廊下を音無く歩いた。

 長く生きていると面白い光景に出くわすが、今日などはその最たる例だ。

 へらへらと笑ってばかりで、有能さなど一欠片も垣間見せない胡散臭い上司が、日頃の作った態度も投げ打って素の自分を見せる。

 ただの、普通の男の顔になる。

 たった一人の親友の為に。

 1年に1度の、特別な日か――

 ミサはふっと笑みを深めた。

 京楽はあの着物を着るのだろうか。

「……愚問やな」

 人気のない廊下を進みながら一人ごち、ミサは給湯室へと歩みを早めた。

 飛び切り美味しく入れてやろう。

 日頃は見せない思い遣りをほんの少しだけ上乗せして、上司の男ぶりを讃えてやろうと思った。

 一方、驚きから立ち直った京楽は、躊躇うこと無く、隊首の羽織りの上から打掛を羽織った。

 見るも鮮やかで、春が来たように心が浮き立つ。

 だが、それは着物の美しさや値段のせいではなく、浮竹の気持ちが込められたものだからだ。

 それがなければ、どんなものにも価値は宿らない。

「気に入ったよ。ありがとう、浮竹」

「そうか! それは良かった!」

 浮竹にとって、京楽にそう言って貰えたのが何より嬉しい。

 手渡すまで一抹の不安があったのだが、それも京楽の言葉で尸魂界の彼方まで吹き飛んだ。

「やっぱり、おまえとは気が合うなぁ! いつも俺の贈り物は不評を買うんだが」

 そういいながら、浮竹はにこにこと上機嫌に笑った。

 不評だろうが好評だろうが、一向に気に掛けない我が道を往く剛胆さを持つ浮竹である。

 京楽はそんな浮竹を見て、小さくクスリと笑った。

「サイズがおかしければ言ってくれ。店主が直してくれるそうだ」

「大丈夫だよ」

 本当は少し小さかったが、上から羽織るだけなので特に不都合はない。

 しかし、これを包んだ店主に顔を見せ、驚きを分かち合うのも良いかも知れない、と京楽は悪戯めいた考えが過った。

 近々、この着物の礼を言いに行こう。

 そう心の端に留めておく。

「見た瞬間、これだと思ったのだ」

 理屈よりも直感先行――、それは実に浮竹らしい、男らしく潔い選び方だった。

 型破りで失敗することもあるが、そこに込められた彼の思いはとても温かく、京楽に関しては絶対に外れることがなかった。

 何にせよ、彼の好意が面映ゆい。

 昔から変わらぬその思いこそが、一番、京楽には嬉しかった。

「これで3割り増し色男に見えるかな」

 戯けて腕を広げ、ポーズを作って見せる。

 ただ「馬鹿だな」と、照れて格好付けている自分を笑い飛ばして欲しかったのだが、浮竹は飛び切りの美しさで破顔した。

「ああ、京楽はいい男だ!」

 浮竹の言には慣れているはずなのに、やはり直接的な褒め言葉には不意打ちを食らってしまう。

 照れは紛れるどころか増すばかりだ。

「…………」

 京楽は何も言え無くなり、沈黙を誤魔化すように頬を掻いた。

 浮竹と出会って以来、その思案の仕種はすっかり癖になってしまっている。

 もっと機転の効いた軽妙な受け答えが出来るはずなのに、彼の前だといつもこうだ。

 長年培ってきた対人術も洞察力も、彼の前では借りてきた猫のように鳴りを潜めてしまい、ピクリとも働かない。

 だから結局、京楽は素直になるしか道がないのだ。

「……ありがとう」

 心からの礼だった。

 自分から一歩踏み出し、浮竹の肩に頭を置き、甘えるようにそっと寄り添う。

 この歳にもなって馬鹿なことを、と思う。

 部下は笑い、師は呆れるだろう…、そう思う。

 しかし、こうして寄り添うのが自分の中では自然であり、当然だった。

 彼の側は、日溜まりのように温かい。

 振り返るのが怖いくらい長い長い年月が過ぎたが、変わらず、止まらず、ここまで共に歩んでこれたことを誇りに思った。

「学生時代にもあったなぁ」

 浮竹は笑って、京楽の肩を撫でながら呑気な声を上げる。

 窓から差し込んだ陽の光が優しく室内を照らしていて、その清浄な白い光に、京楽は目眩のような既視感を覚えた。

 あの幼かった頃から変わらない、いや、もっとずっと強くなった確かな絆。

 それが自分と言う存在を支える核だ。

「ああ、あったね」

 浮竹の細い指先が、癖のある髪をくすぐるのを感じる。

 甘く、柔らかく、慈しみの篭った手。

 京楽は眼を瞑って昔を懐かしみ、そして今の幸福を知った。

「なんや、それだけか? しょーもない」

 突然掛けられた言葉に驚き、声のする方へ顔を上げ振り返ると、湯気の立った湯飲みを盆に乗せたミサが、入り口手前で詰まら無さそうに口を尖らせている。

 ずかずかと部屋に入ると、書類の積んであった机の上へ、無造作に盆を置いた。

「やぁ、これはすまないね、ミサ君。ありがとう」

 浮竹は笑って湯飲みを受け取り、礼を言ったが、京楽の心境は複雑だ。

 ぐびぐびと勢い良く茶を呷る浮竹とは対照的に、京楽は弱々しく溜め息を付いた。

「……ミサちゃん、帰ってたならそう言っておくれよ」

「チューもなしか、甲斐性無し」

 京楽の言を全く無視した発言に、京楽はガクリと肩を落とした。

 級友との昔懐かしむスキンシップを見せ物扱いされた挙げ句、その感想が『甲斐性無し』では耳に痛い。

「ちゅー?」

 代わりに答えたのは浮竹だ。

 京楽が慌てて止めに入る前に、ミサの講釈が嵐を呼んだ。

「ここは接吻やろ。男なら豪快に、ガブッといかんかい」

「なるほど! そうだな!」

え、と言う間もあらばこそ、京楽の襟首が力強い腕に引っ張られる。

 不意を突かれた京楽は、身に降り掛かった力に逆らう間もなく、前に傾いた。

 つまり、浮竹の居た方に。

 頬に唇が触れる。

 いや、ぶつかった。

 ゴッ!という豪毅な音が聞こえそうなほど、それは頭突きの勢いで突進して、すぐに離れた。

 実際、浮竹の額が京楽の側頭部にヒットする。

 一瞬の出来事で止める隙もない。

「おめでとう、京楽! まだ言ってなかったな!」

 浮竹はまるで何事もなかったように、太陽のような笑顔で大らかに慶事を祝う。

 浮竹にとっては、親類の子供達にするのと大差ないのだろう。

 だが、成人も疾うに過ぎた京楽には、こういう好意の示され方には、いささか羞恥心が伴った。

 純粋な愛情は強力な爆弾だ。

 その破壊力に、思わず顔を手の平で押さえた。

 頭をぶつけられた側面がズキズキしているが、それは未だ良い方だ。

 堪えきれないのは、際限なく溢れ出す嬉しさ。

 蹲りそうにある衝動には何とか耐えたが、どう言葉を発して良いか皆目検討も突かない。

「いいもん見せてもろたわ」

 ミサは悪人面でニヤリと笑い、普段飄々としている京楽の弱り切った姿を遠目から笑っている。

 部下の前で隊長の威厳を保つためにも、京楽は頑張って立ち直った。

「う、浮竹…、ありがとう」

「おう!」

 元気良く笑う浮竹の顔を見ていると、小さなことに羞恥を覚えるのも馬鹿らしくなり、京楽はつられて笑顔を浮かべる。

 今日は自分の誕生日だ。

 浮竹がいる。

 そして彼が笑っている。

 ならば、それ以上の事などどうでもいいではないか。

「おっさん、顔キモいで」

 率直かつ遠慮容赦ないミサの断定に、京楽は怒ることもせずに肩を竦めた。

 今はどんなに腹の立つ事を言われたとしても、笑み崩れた顔は元に戻らないだろう。

「否定はしないよ。でも、けしかけたのキミだからね」

 惚気に堪えるのは責任の内だ。

 京楽は暗にそう込めて、自分の部下にウィンクした。

「羨ましくても混ぜてあげないよ」

「いらんわ」

 呆れたような声を上げてはいるが、普段は澄ましている彼女の顔も、今は柔らかく綻んでいる。

「意外と似合っとるな、それ」

 こっそりと囁いたミサの言葉に京楽が笑う。

「意外じゃないよ、ミサちゃん」

 だって、浮竹がボクに選んでくれたんだから。

 似合わないはずはない、と、さらなる惚気を振り捲き、京楽は朗らかに笑った。

 まだ、甘い玉露の香りが頬に残っている気がする。

「浮竹」

「どうした?」

「ちょっと外を歩こうよ」

 新しい羽織りを見せびらかしたくなった、なんていう子供地味た理由は告げられず、京楽は「休憩休憩」と誤魔化した。

 浮竹の背中をそっと押して、部屋の外へと促す。

「ミサちゃん」

「しゃあないなぁ」

 名前を呼んだだけで京楽の言いたいことが分かったのか、渋い顔をしながらも部下の眼は笑っていた。

 もともと『浮竹が来るまで』という前置きをしておいた甲斐があった。

 太陽が雲間から顔を出し、美しい陽光が幾筋も瀞霊廷に降り注ぐ。

「清清しいな!」

 雨上がりの軒先きに立つ、浮竹の長閑な声が耳に心地いい。

 気分浮き立つ好天気が訪れたことよりも、隣にいる柔らかな浮竹の笑顔に心が弾んだ。

 今日は特別な日だ。

 そして、来年も、再来年も、その先も、ずっと特別な日になるだろう。

 そう感じさせてくれる最高の親友に感謝し、京楽は思う存分、今日一日を満喫することにした。

そして浮竹の誕生日に続きます。

羽織りの値段は、浮竹さんにとったら高い値段で、京楽さんにとっては安い値段…、でもどっちにしろ大切なもの、ということで...(*^^*) リサちゃんを描きたかったのですが、さすがにこの時代にはいないだろーなーってことで曾祖母あたりの似た人ってことにして下さい。でも中身そのまんまリサです(笑)

↓おまけ

 ――それから1年後。

「見ろ京楽! さぷらいず・ぷれぜんとだ!」

「浮竹、それ…」

 どん、と大荷物を掲げた浮竹が、8番隊隊首室の扉から入ってくる。

 絹の風呂敷に包まれた平たい箱――、逆光に浮かぶその光景に、京楽は自分の眼を疑うほど猛烈な既視感を感じた。

「……中、見てもいい?」

 問いかけたのは『怖いもの見たさ』というやつだ。

「おう!」

 自分が確認を申し出て、元気良く請け負う浮竹も覚えがある。

 1年前の今日だ。

 誕生日、浮竹、贈り物。

 この3拍子が綺麗に揃えば、京楽は中身が何か、蓋を開けずとも分かる気がした。

「…………」

 打ち掛けだ。

 桐箱に折り目正しく納められているその様子にも覚えがあった。

 今度は、ほんのりと甘い藤紫の霞のような地に、大輪の白い花が眼も鮮やかに抜かれている。

 ああ、綺麗だ。

 文句無しに綺麗だ。

 しかし、それはやはり女物だった。

「……なんか、これから先どうなるか分かる気がする……」

 浮竹にとって、女物も男物も子供物も、そんな野暮な区別は一切ないのだろう。

 あるのは1つ、直感が働くかどうか。

(凄い感覚だ)

 もしかしたらこれから先の未来、自分の衣装棚には沢山の女物が納まることになるかも知れない――

「どうだ?」

 浮竹が言葉少なく心配そうに、首を傾げて覗き込む。

 最初の威勢は何処へやら、その気遣わし気な、そして自信なさげな様子に微笑ましさが募った。

 自然、驚きに彩られた顔も緩く綻んでくる。

 京楽は安心させるように微笑むと、いつものように心を込めて

「ありがとう」

と礼を言った。

「凄く綺麗だね」

「そうだろう! おまえに似合うと思ったんだ」

 その言葉一つで、自分は簡単に幸せの海に浸かれるのだ。

 暖かな感情に満たされて、この世界の全ての幸せをこの手に掴んだ気持ちに慣れる。

(ありがとう)

 一生分の感謝を京楽は心に刻んで、京楽は新たな羽織りをその身に抱き締めた。

 この後、京楽さんは浮竹さんから女物の着物とか帯とか色々貰うことになったりして...(・ω・;) 女物の打ち掛けとか腰布とか簪を身に付けてるのがそのせいだったら可愛い(笑)

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