折角綺麗に飾った笹をあっさりと川に流してしまう行為に、子供の頃は物質的未練ではなく、その意味のなさに躊躇ったものだった。

 拙い願望の込められた小さい短冊に、工夫を凝らした色紙の飾り。

 不器用な子供の手で作られたものは下手なりに愛嬌はあるが、どうせ直ぐに捨てるものと、京楽は鼻白むことしかできなかった。

【 星 】

 自分でも擦れていた自覚はあった。

 子供特有の、矛盾と不条理に満ちた大人の世界への反抗心だと、今ならわかる。

 だが当時の自分が気づくには、どんなに世慣れた冷静さと知恵をつけたところで、やはり彼は子供だった。

 近所の川を天の川に見立て、願いを込めた短冊を笹に括って投げ込む。

 たった1枚の紙切れとそんな馬鹿げたパフォーマンスで、自分の真の願いなど叶うはずもない。

 子供といえどもそれだけは分かった。

 現世の名残りのような、伝統だけが残った無意味な行事……、それが京楽のだした結論だった。

 その矛盾を飲み込むことも受け流すことも出来ず、疎ましさを殺して淡々と業務の一環としてこなしていた日々。

 今思えは本当は「子供だった」というよりも、何もわかっていなかったという方が正しいだろう。

 それは京楽の置かれていた立場では仕方のないことではあったが、あのままの自分でいなくて良かったと、七夕の笹をみる度に、そんな甘い感傷が沸き起こるのだ。

 今だ、京楽は子供の域を出ず、またその自覚もあったが、冷笑と皮肉に満ちていた自分の心が大きく変わったことを知っている。

 もう一生、昔のような、厭世的で浅薄な考えはもたないだろう。

 彼が隣にいる限り。

***

 七夕の夜が美しく晴れたことを、級友は純粋に喜んでいた。

 この梅雨の季節は現世の影響そのままに雨が多く、雲の絶えない日が多い。

 それが1日だけぽっかりと穴が開いたように、気分良くカラリと晴れたのだから、これはきっと浮竹の日頃の行いが良いからだと、級友たちは半ば冗談半分でそう言った。

 笹の飾りを眺めるのも今日で終わり、後は惜しみながらも川へと流すだけ。

 雨よりも晴天の天の川を眺めるほうが、やはり七夕には相応しく、情緒がある。

 前には級友が姦しくも楽しげに歓談に興じ、歩みも軽やかに笑い合っていた。

 大方、笹に書いた願い事を話題にしているのだろう。

 皆を代表して笹を持つ浮竹は一番後ろに居た京楽の隣に並んで歩き、心弾むまま上機嫌に、短冊に書いた願いを一つ一つ話している。

 いつもは皆の中心にいる彼がその輪を離れ、望んで自分の側にいる。

 これが、常に皆から一歩離れ、歓談を遠目にしてきた自分に対する優等生的な気遣いや同情なら、京楽は忌避していただろう。

 だが浮竹の想いは純粋な好意に溢れていて、真っ直ぐに京楽へと届けられる。

 そんな実直な裏表ない想いを感じる度に、嬉しさと気恥ずかしさと、そして浮竹本人には言えないが、仄かに甘い優越感が京楽の心に浮かび上がった。

 茜色の、この明るい初夏の夕空が美しいのは、夜を導く星の瞬きのせいではない。

 京楽は七夕への捻くれた感傷も忘れ、ただ幸せだと感じた。

 人生、何が起こるかわからない――と、まるで余生を過ごす老人のようにしみじみ思う。

 こんな輝ける夕闇が見れるなど、この学院に来るまで、京楽は想像だにしなかった。

「で、キミ自身の願いは? キミってば、さっきから聞いてると、他の人の願いばかり代弁してるみたいじゃないか」

 浮竹の願い事は、それはもう本当に、彼らしかった。

『森ノ宮が追試を免れますように』から始まり、『南野の捻挫が無事に治りますように』『九条の片想いが成就しますように』……などなど。

 自分自身ではなく、友人たちの願いや家族の健康を祈るものが沢山連なっている。

 そこが浮竹を好ましく思う長所の1つだ。

 しかし、浮竹本人の願いが知りたくて、京楽は好奇心から聞いてみた。

「ああ! それもちゃんと書いたぞ」

 朗らかに笑って、浮竹は持っていた笹を下方へ傾け、先端を京楽に見せた。

 緑深い細い葉がさわさわと揺れ、千代紙の鮮やかさを際立たせて見せる。

「この一番上の枝に括ったんだ。ほら、この黄色の短冊」

 つまみ上げた紙片には、彼の自由闊達な人と成りの感じ取れる力強い文字で、『京楽のサボり癖が改善されますように』と書いてあった。

「あらら……」

「後これもだ、京楽。それから…」

 浮竹は笹の頂点に括られた短冊を次々指で示して行く。

 それらは概ね、同じようなことが書かれていた。

『京楽が落第しませんように』

『京楽が寝坊しませんように』

『京楽が女子に対してもう少し落ち着きますように』……

「浮竹、もしかしてこの枝にある一画、全部ボクのこと?」

「そうだ」

胸を張って浮竹が答える。

 浮竹が『皆の願い』として書いた量と同じくらいの量を使い、京楽の素行に関することが書かれている。

 京楽はガクリ、と大きく肩を落とす素振りを見せながらも、浮竹の想いの甘さに顔が綻ぶのを止められなかった。

 浮竹に自覚はないだろうが、『皆の願い』は『他人の願い』だが、『京楽の願い』は『自分の願い』なのだ。

 まるでそれが当たり前で、二人の間に何の隔たりもないようで、京楽は照れと嬉しさを誤魔化すために、ポリポリと頬を掻いた。

「それはそれは……。なるべく善処するよ。でも願い事って、誰にも教えないほうが叶うっていうのが定番でしょ」

教えちゃっていいの?と、照れ隠しにそんな心にもない言葉を返す。

 浮竹は「そうなのか!」と、純粋な合いの手を入れたが、しかしこう切り替えした。

「しかし、この願いの場合、何も言わないよりもお前に見せたほうが効果はあると思うぞ」

 それはもっともな言い分だった。

 こっそり願って川に流すより、本人に伝えた方が余程合理的かつ建設的だ。

「確かに。でも、ボクが素直にそうする保証はないよ?」

「なぜだ」

「何故って…」

 浮竹はにこにこ笑っている。

 京楽は毒気を抜かれたように、ぽかんと浮竹を見返した。

「おまえなら大丈夫だ」

 その浮竹の笑顔は屈託なく、厚い信頼が込められていて、京楽は眩しさに眼を細めてしまう。

 ――なんという信頼だろう。

 堅く、柔らかく、優しく、気取らず、太陽よりもなお鮮やかで。

 彼の飾らない笑顔を見る度に、ただ1つの灯火を手に入れたような優しい暖かさを感じる。

 あるいは、夜空に燦然と輝く一等星を見ている気分だった。

 彼が望むなら、叶わない願いなどない気さえする。

 むしろ、自分ができることなら何でも叶えてやりたい。

「ところで、京楽は何を書いたんだ?」

 浮竹の質問に京楽は少し焦った。

「ボクは…」

 結局何も書かなかったのだ。

 紙片は受け取ってそのまま、筆を走らせることもなく無造作に袖の中に突っ込まれていた。

 今も無地の紙片が、くしゃくしゃになってそこにあるだろう。

「願い事が思い浮かばなくてね」

 それは、京楽が付くにしては、なんの技巧もない未熟で拙い嘘だった。

 思い浮かばないのではなく、そんな青臭い行為が面倒に感じていたのだ。

 しかし、今は勿体ないことをした気分になってきた。

「京楽は欲がないなぁ! 俺なぞ、20枚も書いたぞ」

 浮竹は感心したように頷き、また笑う。

 その20枚の約半分は自分のことだと思うと、おかしなことに、今更ながら自分も何か書いておけばよかったと――、もっと具体的にいうなら、浮竹のことを願えば良かったと――、微かな後悔が胸を過ぎった。

 何故か浮竹といると、今まで自分の中で決めていた諦念や固定観念が、いとも簡単に崩れていく。

 そして後に残るのは、自然で素直な気持ちだけだった。

「でも、せっかくだから何か書けば良かったなぁ」

 京楽が残念そうにそう呟くと、浮竹は「何言ってるんだと」とクスクス笑った。

「なら、俺に言えばいい」

「え?」

 浮竹の言葉の意味が理解できず、間抜けにも眼を丸くして聞き返してしまう。

「紙に書くだけが方法じゃないだろう。こんなものは気持ちだ、気持ち。気の持ち様でなんとでもなる。今ならまだ間に合うぞ?」

俺が受け付けてやる、と彼は豪気に自分の胸を叩いた。

 風に舞った笹の葉がさわさわとそよぎ、陽の橙が映った浮竹の髪にかかる。

 金糸雀色の光に縁取られ、隣で微笑む浮竹の姿がとても眩しく、京楽の瞳に焼き付いた。

「ほら、京楽」

 確かに、気の持ち様だと思った。

 ひどく浮竹らしいその理屈は、彼の輝く笑顔と相まって、不思議な説得力がある。

「じゃあ、浮竹が誕生日を祝ってくれますように」

「それはもう予定済みだ。他は?」

「え−っと−、…浮竹の誕生日を祝えますように」

「安心しろ、それも予定済みだ。ほら次だ。早くしないと川に着いてしまうぞ」

 カラカラと浮竹が笑う。

 その声音は芯があり、笑顔は涼やかで、夕暮れの寂寥感を跳ね退けるような魔法がある。

 このまま川に着かず、ずっとどこまでも道が続けば良い。

 浮竹の微笑みに自分も笑顔で返しながら、京楽は、ああ、本当に自分は欲が少ないのかも知れないと、そう思った。

 その代わり、たった1つのものに、どんどん思いが傾注していく。

 何ものにも心を懸けなかった分、その偏りがここに出て来てしまったのだろう。

 京楽はどこか人事のように冷静に、そんなふうに自分を評した。

(まいったね、どうも…)

 こと浮竹に関して、本当に自分はおかしい。

 全ての常識が当てはまらない。

 しかし、そんな自分が嫌ではなかった。

 むしろそれこそが、やっと目を覚ました本当の自分なのだと分かる。

「京楽、着いたぞ!」

 一際澄んだ浮竹の声と、級友たちの華やかな歓声。

 京楽が黙考を止めて顔を上げると、落ちたばかりの夕日が鮮烈な光輝を発して、薄紫の地平線へと消えた。

「京楽!」

 浮竹の側では、燃え盛る夏の太陽すら、酷く優しく、慈しみに満ちている。

「願いの続きは来年に持ち越しだな!」

 浮竹はそう言って、橋から笹を投げ入れた。

 皆の願いを乗せた笹は、ぱしゃりと水面を跳ねて雫を散らす。

(ありがとう。でもボクの願いはもう叶ってるよ)

 そう告げる代わりに、京楽は「そうだね。また来年」と浮竹に笑いかけた。

 川面に浮かんだ笹の葉が、ゆらりゆらりと流れていく。

 終わらぬ旅路を願うように、そしてこの胸に刻まれた願いがずっと叶い続けるように、京楽は静かに、更け行く空の宵闇に祈った。

 キミが隣に望んでくれるような、そんなボクで居れますように。

 キミの隣に相応しい、そんな大人に成れますように。

 そして願わくばキミも、同じ想いでありますように。

超久しぶりのSS更新です...(・ω・;) 七夕書くゾー!と始めは威勢良く書いてたのですが、段々訳わかんなく…(そういうことあるある) 京浮はむつかしい… orz 

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